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忘れもしない忘れた日のこと

家に帰ると母親にその日の出来事を話すのが習慣だった。泣き虫だった小学校低学年のころなんかは、学校から帰るなり「今日も泣いた!」と内容と一致しない元気な声で報告をしていたらしい。あとはどんな授業があったとか、誰とどんな話をしたかとか、そんななんてことのないことを話していた。タイトルにある「忘れもしない忘れた日」とは中学一年生の11月11日のことで、その日も僕はいつものように帰宅したのだった。

異変はすぐに起きた。というよりも既に起きていた。母親に今日の出来事を話したいのだけれど、出てこない。思い出せない。さっき受けた授業のことも食べた給食のことも、何より自分が今誰とどうやって帰ってきたのかもわからない。焦った母親が「今日何日かわかる?」と聞いてくるのだが、それもわからない。「ポッキーの日だってさっき言ったばかりでしょ!」そんなことを言われても、その「さっき」の記憶すらない。それで今日は何日なんだっけ。しばらくそんな感じが続いた。なんと僕は完全に記憶力を失っていたのだ。起こったことがそのままするりと脳みそを抜けていって、何も覚えられない状態だった。それでも瞬間的には問題なく乗り切れるものだから、学校では誰も異常に気づかなかったらしい。

つまりここまで書いてきた僕の異常も、僕自身は覚えていないのだ。僕が覚えているのは「今日は何日」の質問を何度も繰り返した(らしい)最後のほう。どうやら同じ話を繰り返していたみたいだな、と自覚してからの記憶だ。僕は病院に連れて行かれてMRIを受けた。初めて入るその筒は、中で口を開けると頭にグワングワンと音が響いて楽しかった。のんきに遊んでいたら怒られた。脳には異常がなかった。


僕は覚えていないのだけれど、後からわかった話では原因はその日の体育の授業だった。男子だけがやらされる柔道で、背負い投げをされた際に相手の脛に頭を打ったらしい。そのとき周りは心配してくれたものの、僕は「大丈夫だいじょうぶダイジョウブ」と言ったとか。全然大丈夫ではなかったよ、僕。それから強調しておきたいのは、相手の子はその後の授業でも違う子に怪我をさせていたので、決して僕の運動神経の悪さのせいではないということだ。

翌日の朝、担任の先生からみんなに僕の話をされた。「彼は昨日の記憶がないようです」なんて前代未聞のニュース、13歳にとっては面白すぎる話だ。僕は一躍ヒーローとなって、クラスのみんなが「俺のこと覚えてる?」なんて聞いてくる。当時好きだった子も聞いてきた。だから無いのは昨日の記憶だけだって。僕は笑っていなしながら、ここは忘れていたほうが物語が始まりそうなのに、なんて思ったものだ。


いまだにあの11月11日の記憶だけは戻らないし、これからも思い出すことはないだろう。別に大した一日ではなかったと思うが、ただ一つだけ解明できていないことがある。ひとしきり「俺のこと覚えてる?」とヒーローインタビューをこなした後、ふと筆箱を開けると僕の定規がバキバキに折れていたのだけれど、あれはなんだったのだろう。

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