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愚にも(思い)つかない

記念すべき50回目であり、noteを始めてから(ほぼ)一年の区切りでもある。しかし考えてみれば50という数字が「記念すべき」感じがするのは、100の半分であるというところが大きいのではないか。となれば、今回をしっかり記念にするには100回を目標にしなければ意味がない。毎週更新は今回で一旦やめにすると決めたので、その目標は未来の僕に託そう。

毎週何かを書くという生活をしてみると、いかに自分がトピックスやエピソードやイベントのない人生を送っているかに気付かされる。あっという間に過ぎ去る一週間。そしてそのままあっという間に過ぎ去った一年を祝うとともに、これで良かったのだろうかと一年と呪うまである僕である。
noteを始めたのは自分の生活にトピックスやエピソード(以下略)を積極的に作るためでもあったのだけれど、どうやら僕はどうでもいいことをつらつら述べるスキルがやたら高かったようで、トピックス(以下略)がなくてもなんとなく書き続けられてしまった。一年やってこれなのだから、きっと僕はこういう人間なのだ。

恥ずかしさと闘いながら、忘れ去っていた第一回を振り返ってみた。タイトルは「愚にもつ(づ)かない」。
どうやら馬鹿馬鹿しいという意味の「愚にもつかない」と、自身の継続力のなさをかけているらしい。いいね。
一年継続した今そのタイトルは否定されたわけだけれど、馬鹿馬鹿しさの方は変わらず残っている。鎮座ましましている。
あと第一回の僕はもうちょっと面白く文章を書こうと頑張っていた。いいね。


僕の(まだ長くはない)人生につきまとうテーマとして、「足りなさ」「満たされなさ」というものがある。常に自分には何かが足りていない。完成されていない。それは悩みでもあったけれど、なんだかこの1年によって肯定された気もする。このどうでもいいnoteを読んで少しばかり楽しんでくれる人のおかげである。おかげでしかない。
例えばドーナツをドーナツたらしめるのがぽっかり空いた穴であるように。サイダーをサイダーたらしめるのがたくさんの空気の泡であるように。僕を僕たらしめるのは「どうでもよさ」「しょうもなさ」「どうしようもなさ」なのだろう。

いいことを言って終わりたかったのだが、まだ1,000文字に達していない。記念すべき今回だというのに残りちょっとが思いつかない。僕につきまとう「足りなさ」というのは、文字数のことではないと思うのだけれど。

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