見出し画像

いのるが躁鬱になった経緯

こんにちは、いのるです。
今日の投稿内容はちょっと暗めです。
わたしがどういう経緯で躁鬱になったかをお話しします。
色々あって過去の記憶が曖昧になっているので、読みづらい部分があるかもしれません。先に謝罪しておきます。ごめん。

まずいのるの現状から軽く説明します。
いのるは現在大学2年生で、都内の大学に通っています。躁鬱になったのは高校3年生の11月くらい。もっと前から症状は出ていたけど、ずっと親には隠し通していました。今はそこまで酷くありませんが、お薬を飲んで治療を進めています。飲んでるお薬はジェイゾロフトとデエビゴの2つです。デエビゴは副作用で悪夢をよく見てしまうけど、もう慣れました。


では本題に移りましょう。なぜいのるは躁鬱になってしまったのか。
時代は中学生まで遡ります。


中学生のいのるは絵を描くのが大好きで、美術部に所属して友達と仲良く絵を描いていました。でも中学校自体のとても治安が悪くて、いじめや嫌がらせをよく見かけました。いのるもいじめられっ子の一人でした。容姿のことを悪く言われたり、特徴的な声だったのでそれが変に目立って揶揄われたりしました。同学年の男子ほぼ全員と一部の女子がいのるのことをいじめてて、居場所は部活だけでした。中学3年間いじめに耐えながら、もう一つ問題を抱えていました。

それは実の兄との関係があまり良くなかったことです。
詳細を書くと色々とまずいので説明はできませんが、兄といじめっ子たちのせいでいのるは男の人が苦手になりました。エレベーターや電車に乗るのも怖くなってしまうほどでした。(のちに治る)


そんな問題を抱えたまま高校入学。
ちなみの当時の私は自分が高校生になれると思ってなかった。(未来に希望を抱けなかった)
いじめがない環境下がほぼ初めてで、学校生活ってこんなに平和なんだ!と感動し、1年生は平和なまま終わりました。でもコロナ禍だったから登校日数が少なかったりイベントができなくて物足りなかった。部活はずっとやりたかったギターを学ぶためにギター部(アコギで弾き語り)に入りました。
2年生。事件はここで起こります。
兄との関係が悪化してストレスMAXで限界を迎えました。授業中に涙目になりながら保健室に逃げ込み、保険医の先生に全てを話しました。兄とのことを大人に話したのはこの時が初めてでした。先生は母親に連絡を入れて私の代わりに全てを話してくれて、私はすぐ早退し、家に帰って自室のベッドに篭り母の帰りを待っていました。
母が帰宅してから二人で話し合い、なるべく兄とは二人きりにさせないこと、私の身の安全を第一に考えると誓ってくれました。
担任の先生にもこの話はなんとなく伝わっていたようで、最初のうちは体調を崩して早退してしまうことを受け入れてくれていました。しかし、何度もそれが続くと流石に不信感を覚えたのか、私が早退する旨を伝えると嫌そうな顔をされることが増えました。
期末テストが近かったとある日、早退するために担任に許可とはんこをもらいに行くと、こう言われました。
「幸多(いのるの苗字です)は自分を甘やかしすぎだ、部長ならもっとしっかりしろ。2学期が終わるまでもう早退するな。」

ショックを受けました。理解者だと、味方だと思ってくれていた担任にそんなことを言われるなんて。その日は悔し泣きしながら帰りました。
(これは別件ですがスカート折ってるのがバレて怒られた時、「色気付くのはいいけどそういうのは学校で外にしなさい」と言われて本気でキモいなと思いました。)
担任はもう信用できなくなり、保健医の先生もあまり対応してくれなくなりました。やはり病名やちゃんとした症状が出ないと仮病だと思われやすいのかもしれません。


そして迎えた受験生。担任が変わり、話は長いけど真面目で優しい先生になりました。またしてもここで悲劇が起こります。
3年のクラスではいわゆるちょっとした問題児の女の子がいて、私と友達数人はなるべくその子を避けようね、となっていました。しかし移動教室や選択科目などの関係で、私以外の友人はその問題児ちゃんと行動することが増え、いつの間にか向こうのほうがわたしよりも仲良くなっていました。ご飯を一緒に食べていても会話に参加できない、席を遠くにされてハブられたりして完全に仲間はずれにされました。オタク友達が心配して声をかけてくれて、ぼっち回避できたのは唯一の救いでした。
友達を失ったショックからしばらく立ち直れないまま、本格的に受験勉強がスタートしました。私が通っていた予備校は個別授業でしたが、周りの生徒が偏差値の高いところばかりでプレッシャーと劣等感に苛まれながらも一生懸命勉強しました。しかし模試やテストでもうまく結果は出ないままでした。夏期講習中には病み垢を作ってそこに愚痴や不安をこぼさないと、まともに生活できないくらいには追い込まれていました。
ここからは本当に辛くて記憶も曖昧なので、実際に過去のツイートを読み返しながら話を進めようと思います。
夏休みが明けて文化祭、体育祭とイベントが進み、指定校推薦組の進路も決まり始めました。私の高校はほとんどの生徒が指定校推薦で進路が決まるので、皆が遊びの予定の話をしているのを私は死んだ目で見ていました。私だけ進路決まってないのになあ、自分が終わったからって周りのこと考えないってどういうことって無性にイライラしていたし、色んな意味で周りとは違うことに寂しさを感じていました。そしてついに通院スタート。慣れない薬の副作用に振り回されて苦しかったです。流石にこれは担任に話しました。担任はとても私を心配してくれて、定期的に体調のことや進路の相談に乗ってくれたりしました。
そしていよいよ受験。私立大学を5つほど受けて、1つしか受かりませんでした。もちろん第一志望は落ちました。でも、落ちてしまった悲しみより長いこと続いた受験から解放された喜びの方が大きかったので、そこで心が一気に楽になりました。大学が始まるまでの春休みは友達と出かけたり、家族でご飯を食べに行ったり我慢していたゲームをめいっぱいやったりとのんびりと過ごしていて、そこで少し症状も改善されました。


そして高校を卒業し、大学生活がスタートします。
友達作りも順調に進み、軽音サークルにも入ってずっとやりたかったバンドを組みました。そしてまんまと大3の男に沼りました。(大学3年の男はみんな危険)告白して呆気なく振られて、でも友達としての関係は続けたままなのでギクシャクしないでよかったなと思いました。

では大学生活で病んだ原因はなんだったのか?音楽です。まさかのいちばんやりたかったことで病む羽目になるとは思ってもいなかった。
周りが上手い子達だらけで、何をやっても中途半端な自分がいていいんだろうか、迷惑をかけてばかりいるんじゃないかと杞憂して、存在理由についてまで悩み出してしまっていました。こんなこといくら悩んでも仕方ないんですけどね、人間は愚かな生き物なので仕方ないです。ライブステージでうまくできなかったり、シンプルに怖い先輩がいたりとかでメンタルがイカれた矢先にバイトでミスをしまくって限界を迎えました。自室から出られなくなり、通院を再開することになりました。そしてメンタルの回復の見込みがあまりみられなかったため、3月末にバイトを退職し今は学校に通いながら治療に専念しています。しかし何もしていないままだと将来の自分に危機感を覚えたため、色彩検定の資格を取ることにしました。早死にする気はないけど長生きして誰かのために尽くす願望もないので、せめて自分を誇れる人間にはなろうと思って就職のことややりたい仕事についてなんとなく向き合い始めています。


以上がいのるが躁鬱になった経緯です。省略して書けてないこともあるけど、自分は繊細な人間なんだなと書いていて思いました。まあINFJだしそりゃそうですよね。
これからも適度に自分を甘やかして躁鬱と向き合っていけたらいいなと思います。
同じように悩んでる人がいたら、これを読んでひとりじゃないよと寄り添って、少しでも救いになれば幸いです。

ではまた次の投稿でお会いしましょう。次は明るい話にしたいな!
では、さいなら〜〜〜^^





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?