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心の隙間と新たな可能性

ふとした瞬間に自分自身の無知や足元の脆さに気づき、言い知れぬ不安を感じることがある。

プロジェクトの谷間で一息ついたときや、電車でスーツ姿のビジネスパーソンに囲まれているときなど。要は、自分が世間一般でいわれているキャリアから外れていることを認識すると、あっという間に言葉にできない不安が入り込んでくる。

目の前の仕事が忙しいときにはこうした感覚に陥ることはない。つまりは、何か心に隙間ができたときにやってくるのだろう。

目の前にない何か

こんなときは、大抵、本質でない何かにとらわれているか、内向きになっていることが多い。端的に言えば、「目の前にない何か」にとらわれているのだ。

目の前にない何かの筆頭は「世間様」である。

社会で生きている以上、世間はエコシステムそのものである。もし世間としての社会がなければ、仕事をして対価を得ることも、衣食住を満たすこともできない。人は社会の住人であると同時に構成要素の一つであることは間違いなく、その意味で世間は必要不可欠なのだ。

その一方で、自分の言葉で「世間様」というとき、それは何を意味するのだろう?

隣人や町内会を指すのだろうか。それともSNSの向こうにいるフォロワーを意味するのだろうか。昨日電車で偶然居合わせたビジネスパーソンはどうか。かつての同僚は……。

考えれば考えるほどその輪郭はぼやけてしまう。実態があるようでないのだ。

しかし、様付けで呼んでいる以上、おそらく何か恐れや敬いの対象であるのは確かだろう。ただ、実態が分かりにくいということが自分にとっては恐れの対象なのかもしれない。正体の分からないものは怖い。加えて、自分が「わかっていない」ということ自体も怖いものだ。

自分の意思でフリーランスという未知なキャリアを選んだ。その時点で「世の中の平均」から逸脱することを良しとしていたはずだ。サラリーマン時代の風景はすでに遠い昔に感じられる。しかし、学生時代を含めた数十年にもわたる「平均的な活動」の習慣は手強く、折に触れては顔をのぞかせる。

*  *  *

もうひとつ、目の前にないものといえば「未来」だろう。

この先仕事はどうなるのだろうか。家族は健康でいられるか。社会は不安定になっていくのではないか。AIの台頭によって専門分野のスキルが無価値になることはないだろうか――など、不安の種には事欠かない。

先ほど出てきた世間様は、こうした不安を伝搬させる役割も果たしている。メディアに接していれば、望む望まないに関わらず不安の種が降ってくる。

もちろん、真っ白なキャンバスを頭に浮かべ、好き勝手に妄想することも可能だ。それは楽しい作業であって自分に活力を与えるものだが、いつまでも描いてばかりではいられない。いつか筆を持つ手は止まる。手が止まれば、朝霧のように静かに不安が入り込んでくる。

このように、自分の中のは「未来」は振り子のように揺れ動く。そうなると輪郭はぼやけていき、やはり漠としたものになってしまう。

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世間様と未来は全く違うものであるけれども、漠としているということは共通している。おそらく、自分は漠としたものが怖いのだろう。これが心の隙間の正体なのかもしれない。

漠としたものに立ち向かう

ではこの現象にどうやって対処すればいいのだろうか。

考えてみると、4つほどアイデアがでてきた。

一つ目は漠としたものから目を背ける、ということ。
とにかくやれることに集中する、手を動かすということで、この記事を書いている行為もそれに含まれる。確かに実態を伴う活動は不安を取り除いてくれる。

二つ目は漠としたものを具体化する、ということ。
不安なのだったら具体化してアクションに落とし込め、という話。ビジネスの現場では定番の対処法である。現代のプロジェクトマネジメント技法は、課題のみならず漠としたリスクへの対処法も教えてくれる。

三つ目は漠としたものをありのままに感じる、ということ。
恐れるのでなく認識せよ、というアプローチ。不安から逃げたり無理に張り合ったりするのではなく、今ここで一旦受け容れる。

そして四つ目は漠としたものを楽しむ、ということ。
漠としているからこそ楽しく、成否を含めて面白い活動になるように仕立てること。前向きであるが、難易度は高そうだ。

ふたつの世界観

一つ目と二つ目はロジックの世界だろう。目を背けるのも具体化するのも合理的な思考のもとで行われる。例えば、「漠然としたことを考えても生産性は上がらないから将来の目標やプランを描く」みたいな。端的に言うと漠としたものに抗うアプローチ。

論語にも次のような一節がでてくる。

地位のないことを気にかけないで、地位を得るための〔正しい〕方法を気にかけることだ。自分を認めてくれる人がいないことを気にかけないで、認められるだけのことをしようとつとめることだ。

引用元: 論語 岩波書店

人間こそ道を広めることができるのだ。道が人間を広めるのではない。

引用元: 論語 岩波書店

攻撃は最大の防御であり立ち止まっている暇などない、ということだ。

漠としたものの「漠具合」がそこそこである場合は、このアプローチでも上手くいきそうだ。しかし、それがあまりにもふんわりしているとか、自分の頭で到底考えられないものに出会うと対処はできない気もする。

自分の頭に入り込んでくる漠としたものは多種多様であり、自分の手が届かない事象も多い。そのため、自分が手を出せる範囲で頑張れということになるのだが、手を出せる範囲が極めて狭いときはどうすればよいのだろうか。

こんなときほど三つ目と四つ目のアプローチが大切に思える。

漠としたものを認識し、その存在を許容しながら自然に乗り越えていくようなアプローチ。言葉にするとシンプルだが中々大変だ。しかし、これは大切であるように感じる。

老子にはこのような一節がある。

つま先で立つ者はずっと立っては居られず、大股で歩くものは遠くまで行けない。みずから見識ありとする者はものごとがよく見えず、みずから正しいとする者は是非が彰かにできない。

引用元: 老子 岩波書店

身の置きどころは低いところがよく、心の持ち方は静かで深いのがよく、人とのつき合い方は思いやりを持つのがよく、言葉は信であるのがよく、政治はよく治まるのがよく、ものごとは成りゆきに任せるのがよく、行動は時宜にかなっているのがよい。

引用元: 老子 岩波書店

諸行無常の世の中を冷静に見よ、ということだろうか。

このアプローチに対する明快な処方箋はおそらくないだろう。自分が世の中をどうとらえるかにかかっているのだから。

世の中をどうとらえるか

世の中のとらえ方という点で、ひとつヒントになりそうな考え方を見つけた。社会構成主義という考え方だ。

私たちが「現実だ」と思っていることはすべて、「社会的に構成されたもの」です。もっとドラマチックに表現するとしたら、そこにいる人たちが「そうだ」と「合意」して初めて、それは「リアルになる」のです。

引用元: 現実はいつも対話から生まれる ディスカバー21

この考え方は人事関連本をあさっているときにたまたま出合ったもの。難しい話だし理系の人には良くわからない話かもしれない。いま議論しているテーマの文脈でいうと、この考え方のポイントは次ようなものだ。

  • 言葉や事象のとらえ方は、それに対峙した人が属している文化の影響を受ける。つまりは、人によって異なる現実があり、多元的な現実(意味認識)が存在している。

  • 異なる文化背景を持つ人同士が対話をすることで、新しい現実を創造することができる。

はじめてこの考え方に触れたとき、「何ともよくわからない」と正直思った。コンピューターサイエンスともデータサイエンスの考え方とも随分異なっていたからだ。実際、初めて読んだときには分からないまま読むのを止めてしまった。

しかし、マネジャーとなっていろいろなメンバーと1 on 1を重ねるにつれて、あるいは子育ての中で子供たちのユニークさに触れるにつれて、この考え方もあり得るのではないかと思うようになった。また、ピープルアナリティクスに携わる中で多くの人事部門の方とお話し、新しい視点をいただいたことも大きい。

*  *  *

社会構成主義的な考え方に立ってみると、自分が今置かれている状況が漠としているのは当たり前に思えてきた。長年属してきた組織を離れることで一時的に文脈としての文化を失ったのだから。

思い出してみれば、今一緒にお仕事をさせていただいている方々は、みな自分とは異なる文脈を持っている。そして、どの仕事も始まりは「対話」だったのだ。

むしろ、今の漠とした状況こそ、新たな可能性の種が潜んでいるのではないだろうか。そう考えると何と面白い局面なのだろう。


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