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「相手の立場になって考える」とは、あらゆる可能性を紡ぎ束ねることだ

多角的な視点を持つ事は、多様的に判断、認識できるという事です。
それは己の主観のみで断じられるのと同時に、環境や背景など客観的に見定められる事でもあります。

例えばテーブルの上に箱があると仮定します。
明るい光の中であれば箱と認識でき、真っ暗な闇の中に在れば箱が在るかどうか認識できません。
そして炎の中に在れば不燃物と認識し、水の中に在れば不浸透物と認識するものです。

このように同じ箱でも環境や背景によって、視え方が全く事になって参ります。
もちろんこれは主観的な捉え方からのみ、断じております。
つまり、他に方からは別の視え方も可能ということです。

例えば猫のように夜目が効く方であれば真っ暗な中であっても箱の形を認識できるかもしれないし、炎の中にあるからといって必ずしも不燃物であるとは限らないからです。(燃焼に対する耐性が物質により異なるため)

同じ事象でありながら視点によって全く異なる認識を持たせるのです。

個々の認識だけでも数多の解釈が生まれるのですが、それをさらに多角的にふくらませる方法がこの世の中には存在しています。

謂わば『言葉の魔法』とも云える、多角的な視点から視られた多様的な認識の伝達です。

幾ら多角的、多様的かつ客観的に捉えたとしても、思考には大小問わず自己解釈が介入します。
況してやそれを他者に向けて発するのであれば、それは数多の視点に彩られた事象に無限の解釈が生まれる事を指し示すからです。

それまでの環境や背景が少しでも違うだけで、同じ事象であっても視え方、捉え方は無限大に異なるのです。

つまり初対面の方や異なる感覚を持っている方、育ってきた環境が異なる方と話をする際は、無意識の中に無限大の解釈が生まれています。

また、伝え方や言い様によっては意図的であっても無意識であっても、相手に無限の解釈を『与える』ことも可能なのです。

普段の生活では『常識』や『経験則』という視えない思考、先入観によって、大抵の事は疑問を持たず意思疎通が出来ていると認識していると思いますが、実際は異なるケースも発生していますし、価値観や倫理、信念などの違いによっては全く異なる解釈が生まれてしまう可能性が大いに存在します。

「相手の立場になって考える」とよく言われますが、純粋な自己解釈を挟まずに考えるという事は、実は言葉以上に難しい思考ですよね。

でも、100%解り合う事が出来なくても、ある程度共通した『常識』という枠で括られた同じ『社会』であれば生活を営むことが出来ます。

この『常識』の認識の違いこそが、個々の異なる世界を生み出します。
言い換えれば、どこまで異なる違いを『尊重』出来るかです。

多角的な視点を持ち、多様的に判断、認識するという事は、無限の可能性を追求する事でもあります。
その為にはどんな些細な事であっても否定せず、尊重する事が必要になって参ります。

尊重し合い続ければ当然矛盾も生まれてきますが、それは至って仕方がない事です。

なんせ、無限の可能性を追求する事とは、数多の矛盾の上に成り立つ新たな価値観=新たな常識という概念を成り立たせ、そして壊していく事だからです。

数多の言葉が織り成す無限の世界を知り、解釈することで多角的に判断し、多様的に認識する事が出来る様になると思います。

私達は無限の可能性を紡ぎ束ねる世界に住んでいます。

ちっぽけな自分の世界だけに留まらず、数多の価値観から物事を見出し、互いを尊重し高め合っては、自らの新たな世界を築いて参りたいですね。

最後に不意に脳内リピートしてきた歌を。
山崎まさよし/『セロリ』