今日でもう最後なんですよ。なんでそんな寂しそうじゃないんですか?

映画祭スタッフの打ち上げの帰りの道、初参加のスタッフから、
こう問われた。

映画祭は毎年春に実行委員会が組閣され、キックオフがあり、
秋の本番に向けてみんなで作りあげていく。
そして本番が終わると打ち上げを経て、一旦実行委員会は解散となる。
運営は僕のように複数年関わるスタッフもいるが、学生も多いからか、
半分以上は入れ替わりがある。

「にしやんさんは毎年やってるから、また会えるからとかですか?」

これは半分は正解だと思う。
僕はまた機会があればそのまま関わっていきたいと思うので、また来年やるコアスタッフとは再会できるはずだから。
ただ、今年しかやらないスタッフとは再会する可能性は決して高くない。
実際、過去も半年あれだけ準備で密に連絡しあってたのに今何しているか、わからない人のほうが多い。

けど、それに対して僕は寂しいとか悲しいとは感じたことがない。
というか今まで考えたこともなかった。

振り返ってみると、そもそも映画祭だけでなく、根本的にプロジェクト単位で関係性を考えていることが多い気がする。

遡れば、学生時代の合唱部の節目の演奏会でも、学校の卒業式などでも寂しいなあとあんまり感じてこなかった。
社会人になってからも色んなイベントやフェスに関わってきたけど、そこも変わらずだった。
(ただ、明日から落ち着くなあ、やることなくなるなあという虚無感はあった。)

(そういえば、学生時代の話についてはこんなnoteも書きました。)
(書いたのがもう1年前・・・!)

話変わって、今年の映画祭の長編映画部門は「ビフォア・サンライズ」

アメリカ人青年ジェシー(イーサン・ホーク)と、ソルボンヌ大学に通うセリーヌ(ジュリー・デルピー)は、ユーロートレインの車内で出会った瞬間から心が通い合うのを感じる。ウィーンで途中下車した2人は、それから14時間、街を歩きながら語り合い…そんな自然な会話の中から、彼らの人生観、価値観、そして心の奥の微妙な揺れ動きが見え隠れする。でも別れのときはもう迫ってきていた…(Amazonより引用)

今年の映画祭のコンセプトの「よりみち」にぴったりな映画であり、
かつ、映画祭自体の世界観にもハマっている作品だった。

オフラインで開催していたときの映画祭は日暮れから夜明けまでのオールナイト。そして、朝~昼にかけて一気に会場撤収するので、ほんとに映画祭があったのか実は夢だったんじゃないのと思うときがあるくらい。

今年はオンライン開催だったけれどもその本番の特設サイトを見れるのは1日だけ。もう日付が変わるとアクセスできなくなってしまう。

その幻想的な世界観が素敵なんです。
(興味持たれた方はぜひまた次回お越しください!)

軽く脱線してしましたが、結局なにが言いたいかっておそらく自分は

出会いはすべて「一期一会」
だから、その瞬間に人間関係も含めて全力で

という想いが特に強いんだと思う。

別にそのあと全員と関係性が切れるわけではもちろんなく、
いろんなイベントをきっかけにイベント外で繋がり続ける人もいます。

ただ、最初からこの人と長く付き合っていこうと考えてコミュニケーションを取ってないんだろう。
なぜ、そうするかのひとつに長期的な関係性を見越してしまうと、それによってコミュニケーションが窮屈になってしまうからというのがある。
結構打算的な人間なのでそういった長いスパンを視野にもしいれるとなると色々考えちゃうんです、こう見えて。(どう見えて?)

であるならば、一旦ここまでと線引したほうがフルスロットルで駆け抜けられるし、たぶんそれが一番肩肘はらず自然体に慣れる気がしています。

ただ、そうは言いつつもここ数年は「毎年やってくるものだから」という精神の比率が多くなってきてしまっていた。
コロナが流行して、オンラインに去年切り替わってもそれは今年だけという気持ちでいっていた。

初心忘れるべからずではないですが、毎年関わっているイベントやプロジェクトも作っているメンバーは違うので「これが今年で最初で最後」という気持ちをあらためて持っていきたい。
そうすれば、もう少しは寂しい気持ちになれるのかなと。

そんなことを色々と考える秋の夜でした。

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P.S.

久々のnote投稿はゆこさんのこのnoteがきっかけでした。

ほんとに僕は仕組みがないとnoteを書かないので
この企画に乗って、週1回1ヶ月なにか投稿していきたいと思います。



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