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多様性の中で生きる僕らの音楽のスゝメ⑨ 前

前略。今回はロックの項になります。

では、続けます。

ロックの海外と日本の流れ(戦後~'80年代辺りまで)

海外のロック:
起源としてロックンロール(ここではアラン・フリードか使用していたスラング由来のものを差す。)やカントリー・ミュージック、フォーク・ミュージックやブルース等が挙げられ、精神性や反体制などのプロテスト・ソングが精神的主体となる。
後にイデオロギーや芸術性、技術的要素や社会的要素までを取り込み、近年になると他ジャンル(ヒップホップやラップ要素、クラシックなど)すらも飲み込み、ポップの形態と酷似しながらも最終的にロックというジャンルに纏めてしまう程の概念的ジャンルになりつつある。

その様は正にJポップのキメラ化とも相対されがちなのだが、それに関しては後述(※⑨ 後でさらっと触ります)。そして

日本のロック:
戦後、進駐軍が流す音楽の中にカントリー・ミュージックやフォークミュージック、ウェスタン・ミュージックがあり、それらを演奏するバンドが出てくる。
そして次第にロカビリーに向かうようになり、そこから日本のロックが始まったと考えられる。

ツイスト→GSの流れに向かう者と
ニュー・ロックに向かう者

に分けられる(ちなみにニュー・ロックも日本のレコード会社が宣伝分類のために作った造語である)。

…ここで一旦区切ります。多分この辺りからJポップの潮流へと繋がります。

1968年辺りからのニュー・ロックに向かった者達の特徴として、反体制よりのフォーク畑出身者が多いことが挙げられる。
そしてその多くがその時代のポップスの流れを嫌う動きを見せていた。(今では神格化された話ではあるが、正直当時は商業的には成功しているとは言えない。)
その中で1970年の初め辺りにロック原理主義とフォーク出身者との間で「日本語ロック論争」があり、その中から

ロック原理主義派→ハードロック
日本語ロック→ニューミュージック

の流れに別れていく。

 そしてこの日本語ロックを皮切りに従来のロック路線とはまた違う、新たなロックの独自路線が展開されていく。この流れが決定打となったのは1972年末辺りで、日本語と英語を混ぜた歌を歌ったバンドが商業的成功を納めている(ロック専門レーベルもこの頃に作られている)。
 この辺りでロックとポップの境界線は揺らいだ(キメラ化の一助でもある)と言ってもいい。
閑話休題。

 1970年代後半になるとシーンに対する二匹目のどじょうを狙うレコード会社の介入も盛んになり、模倣シンガーや粗悪なフォロワーを乱発。
そのカウンターカルチャーとして、テクノポップやパンク/ニューウェイブという流れが産まれる。

テクノポップ:
 背景としてドイツ発祥のシンセサイザーを使用した音楽で、SF的なサウンドと視覚効果の主張が特徴的。
当時の日本市場ではヒッピー世代を引き摺った模倣フォークの乱発におけるカウンターの意味合いも。
ジャンル名自体の大元は雑誌に使われた造語。→世界的な成功やヤマハDX7の台頭により模造が乱発するが、アイドル業界の成功を皮切りにお茶の間に定着する。

パンク/ニューウェイブ:
 反体制などの政治色の強いメッセージを色濃く打ち出し、1975年辺りにアメリカやイギリスで広がりを見せる。
日本でも旧骸化してしまったシーンに反抗する姿勢の活動内容に賛同するフォロワーを産みだし、インディーレーベルも多数排出。
レコード会社の枠組みに頼らない活動を行えるようになる。→インディーズの活発化やライブハウスの増加、ハードコアの流れへ。

 そして1980年代に入るとロックを日本語で歌うことは定着し、ヒットチャートや歌番組などもロック・ポップ・歌謡曲(ポップス)・演歌が入り乱れるようになる。

 ロックが一般の耳に手軽に渡るようになると若者は挙って熱狂し、そしてその流れの中からカリスマ性の高い者達も生まれた。
 今までと決定的に違うのは大衆も味方に付けているので社会現象にまで至ったことだ。
 そしてこの追い風が決定打となり、ロックとポップの境界は確実にすり減っていき、ほぼ消失してしまった、と言っても過言では無いだろう。


 今回はあくまでJポップの潮流を探ることが前提なのでロックの歴史について一度止めるが、この辺りにどうやらJポップのキメラ化の源流があるように思われる。
 何故1980年代で話を止めたのか。
 そこには(ロックを含む音楽が)Jポップに集約されつつあると同時に、音楽そのもの"以外"の様々な要因が[楔]となっていった結果、今現在のキメラ化したJポップとなっていったからである。

 その理由については後半で説明しようと思う。


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