好きなこと、好きな人

やりたいことに夢中になっている人を、「ステキ」とよく言うけれど、
そうじゃない人はステキじゃないの?

世界には、「本当にやりたいこと」に[巡り会える人]と[巡り会えない人]がいて、[巡り会えない人]は恵まれない人、不運な人だったということなのかもと、1ミリくらい思ってて、そんな自分がすごく嫌いだった。
「いいひと」に[巡り会える人]と[巡り会えない人]もいるのかなとかも思って、自分が巡り会えない側だったらきついな、とかも思った。

巡り会うまでの人生は、巡り会うための待ち時間なのか?
駅とかバス停みたいに、待っていれば確実に次が来て、しかもそのタイミングがわかる、というわけじゃないし、そのまま人生を終えたら、待っていただけの人生なのか...?
なんか虚しいような気がする。

でも、そうじゃないとやっとわかった気がして、そのことについて整理の意味でも、読んでくれた人と話して深めていく前提の意味でも、書いておきたいと思って書きました。

「本当にやりたいことってなんだ」

「好きこそものの上手なれ」っていう言葉は、きっと宇宙一の正論だと思う。
「努力」は「夢中」にかなわない、とまでは言わなくとも、「夢中」な方が「努力」よりも、すごい集中力ですごい結果を出すという事実は、よく知っている。
古文対策に問題集を必死にやる人と、源氏物語を原文で恋愛ドラマとして次の展開を待ちきれずに読み漁る人じゃ、圧倒的な差が出るだろうし、そもそも源氏物語が好きなら、読んでいる時間は楽しいはずで、好きなことをやっているのは絶対に幸せなことだろうなということもわかる。

「やりたいことをやる」ことの重要性はわかっていて、やりたいことがあったら言われる前から始めてるよ、やりたいことがないから苦労しているんだと言いたい。(ここではまだ言わせといてやってください。)

そんな自分とは対照的に、やりたいことを本気でやった結果の(と思われる)成功者がフィーチャーされて、自分がどんどん置いていかれるように感じる。
どこにでもいるような代替可能な歯車はこれからの時代にもう必要ない、なんて文言が、やたらと心を刺してくる。
うう、自分は社会に必要とされていないし、そんな中でこれからうまくいく未来も見えない…。

成功者との唯一で圧倒的な違いは、「本当にやりたいこと」があるかどうか、熱中して夢中になって動けるものがあるかどうか、であることはわかってる。

「わからんから興味あることなんでもやってみる」

本当にやりたいことをどうにかして手に入れたい。

じゃあ、やりたいことを見つけるために、まず何から始めればいいんだ??
ってことなんだけど、
どうやらこれにはとりあえずの解が存在しているらしい。

それは、興味あることをとことんやってみることらしい。
(自分が行っている大学は、入学時にはいわゆる学部がほとんど決まってなくて、2年生の夏休みに決めるってなってて、専門化が遅らせてあって、高校生の時に将来のことなんて全然わからないけど大学で一年間なんか学べば決まるかなあとか思ってそこにしたのだけど、2年生になっても全然わからなくて焦って、)
2~3年前くらいにキャリアを考える系のイベントとかに行ってたんだけど、そこで大人はみんな口を揃えて言ってた。
「本当にやりたいことなんてある人の方が稀かもしれないけど、興味あることとりあえず全部やってみなよ。」

本当にやりたいことを見つけて、絶対幸せになりたい!って思ったから、
自分にはとにかく色々やってみながら探すしかなくて、色々やってみた。

その時の興味がそもそもわかんなくなったり、もう手持ちの興味がありませんになったら、他の人が興味あることに一緒について行ったりして、補給したりもした。

だけど、だいたい飽きる
ハマるという感覚すらも、よくわかんない。
「最近ハマっていること」っていう話題にも、あんまり思ってないことをとりあえず言っておく寂しさよ。
人生で初めてハマったという言葉が本当にしっくりくるほどハマったのが、1年前くらいのカレー作り。
でも、1年とか半年前にはあった、思わずカレーを作りたくなっちゃう衝動は、今はあんまり強くない。
定期的にカレーを作らないとなんのやる気もなくなる自分の魂はどこに置き忘れてきたんだろう。
「最近ハマっていること」っていう話題が通用するくらいに、何かにハマれている人って羨ましいなって思ってしまったりもする。

その時に興味があることに、ガーッと打ち込んでガーッとハマって、その後しゅんって萎んでいく。
昔の将来の夢が、あの時持っていたほどの情熱がなく、今の将来の夢はまた違う。
こんなことを繰り返してて、本当に自分がやりたいことは見つかるのか?
というか、自分にとって本当にやりたいことは、この世界のどこかにあるのだろうか…。
興味あることはまあまああるけれど、その中で本気の情熱を注ぎ続けられるものがあるとは思えないな…。
というか、仮にあったとしても、それを見つけられるのが死ぬ間際とかだったらきつくないか…?

「飽きる」

カレー作りに関しても、そのものに対しての自分の興味がそれだけのものだった、というだけのことじゃないか?
と言えばそれまでなのだけど、

それを言えるのは、
みんなにとって本当にやりたいことがそれぞれ確実に用意されていて
(神様とかが天職を用意してるのかな)、
それは、自身の行動量によって見つけ出すことがいつかはできる

っていう前提に頼り過ぎているからなんじゃないか、とか今は思う。

小学生が鍬形のシャベルみたいなやつで岩石を削って化石を見つけて喜ぶキットみたいに、あきらめずに掘り続ければ化石が取れることを確実に保証している前提。
本当に存在するのかわからないこの前提を、いつの間にか信じ込んでいる。

でも、自分の手元を見てみると、あらま意外と、不思議なことに、自主的に始めたわけでもないものが続いていたり、本気でやれてたりすることに気づいた。
自分の場合は、例えば、小学校の低学年の時に親にほとんど無理やり始めさせられたサッカーは、中高も続けたし、割と好きだった。
今はなんか他のことに時間を割いているけれど、かなりの頻度でやりたくなるし見たくなるから好きなんだと思う。
でもなんで続けてたかと言われたら、きっと好きでやっていただけじゃ続かなくて、部活に入っていたからなんだろうなと思う。
そこにいるメンバーと仲良くなって居心地の良さから続けたり、一回入った組織のやめにくさみたいなものもあるはず。

今までの自分に、本気でやってきたことが一つもないわけではなく、その時々で集中して取り組めてきたものはある。
それが、自分の興味を深追いし続けた結果というわけでもない。

じゃあ、自分の興味を深追いしていくのは、本当にやりたいことを見つけることの絶対解ではないのかもしれない、
そもそも、本当にやりたいことを見つけようという思考や姿勢が違うのか
とか思ったり思わなかったりする。
いや、興味の深追い自体が、多分どこかで必要な1つのステップではあることは否定できないけど、まだ致命的な言葉足らずがある感じ。
どうすれば、やりたいことに本気で取り組めている自分になれるのか。

それには<愛を育む>っていうスタンスが大切なんじゃないかっていう仮説が最近自分の中でホットで有力。

愛を育むっていう言葉は、何度か耳にしたことがあったけど、それは、2~3年くらい前に人間関係をどう捉えているのかを話してくれた方がいたから、その上で自分が少し経験したから、心に響いてきたんだと思う。

「愛を育む」

その方が言っていたのは、人との関係性を考える時に、その人個人と向き合うという感覚よりも、その人との間に何かボールや植物みたいなものをイメージして、それを2人で大切に育てていくというもの。

ただの捉え方の違いなのだけど、一対一で相対する(あいたいする)と、なんか相手/対象の好き嫌いとか得意不得意とか、やたら相性を気にするようになっちゃって、あんまり前進しない感じがする。

すごいスピードでなにか関係性を前進させたいわけでもなくて、お互いのペースでいいとは思うのだけど、もっといい状況、関係性を作り出していきたい。
言動に対しての違和感や指摘も、気づかない間にやたら相手個人にフォーカスしちゃっていることはありがち。人格の話をしたらもう収拾つかなくなるし、自分の人格を否定されたら当然嫌な気分になる。

そのために、一対一の関係ではなくて、その間に1つお互いに共有できるものを想定することで、それをどううまく扱っていくかっていうベースでコミュニケーションをするということ。

これができると、同じ方向を向いている、一緒に前に進んでいく感が出る(植物なら、一緒に育てようぜ感が出る)。
これがなぜ重要なのかというと、お互いの相性の重要性はあんまりなくなって、人格とか別によくて、お互いのいいところ悪いところをどう引き出したり補ったりしていくかっていう方向の思考にいきやすいため。

これを意識し始めてから、相手が苦手とか不得意とかよりも、自分でその場とか状況をどうすることができるのかを考えられるようになった。
これは対人の関係性だけの話ではなくって、いろんな物事全部同じだろうなと思う。

本当にやりたいことの見つけ方に話を戻す。
自分と何かとのマッチングが行われて、それがたまたま良かった悪かったの話で片付けるのは、自分の問題に帰着しないから簡単。
だけど、そうじゃない捉え方ができれば、自分の行動次第でなんでも変えられるという意識になって、普段の行動とか生き方が結構変わるような気がしています。
(ちょっと脱線。
コミュニケーションのスタンスの話は、この本がとてもよかった。
『Non Violent Communication 人と人との関係に命を吹き込む法』マーシャル・B・ローゼンバーグ
https://www.amazon.co.jp/NVC-E4-BA-BA-E3-81-A8-E4-BA-BA-E3-81-A8-E3-81-AE-E9-96-A2-E4-BF-82-E3-81-AB-E3-81-84-E3-81-AE-E3-8/dp/4532321956/ref=dp_ob_image_bk

相性で切り捨てたり、他のものでもっと相性がいいものがあるかもしれない、これはきっと相性が良くないものだったんだ、相手の限界を決めてもうこれ以上できないと切り捨てたり、他のものへの相性を期待したりする(これが「飽きる」ということなのかも)のでもなく、この対象との関係性を良くするためには自分には何ができるんだろうということを考えるスタンスが、最近身についてきた。
でもこれ、自分で意識し続けるのはかなり難しくて、だからこそ仲間と一緒に頑張っている団結感とか、立場上の責任感とか、そういう自主性にはネガティブともとりうる自分への制約が、時にはサポート的に力になって、何かにずっと没頭し続ける手助けになるんだと思う。
その状況のための環境を自分で作り出すことも、とっても大切だったりするんじゃないかなと思ってる。

「愛を育むバチェラー」

CMを見て、誰がこんなの見るんだろうとか思っていたが、結局夢中になってシーズン1を全部見たバチェラー。
バチェラーの人がイケメンすぎたし、出木杉くんすぎたし、面白すぎた。
それは置いといて、バチェラーという番組の制度がよくできている。

ローズセレモニーというのが存在する。
定められた期間内、複数のパートナー候補と一緒に過ごす中で、次の期間に引き続き一緒に過ごすパートナー候補に対して名前を呼びバラを渡すのだが、それを複数期間に渡って行うことで、最終的に1人のパートナー候補まで絞る、重要なセレモニーである。
その何回目かのローズセレモニーの際に、バチェラーが言った言葉。
これからも愛を育んでいきたいと思う女性の名前を、呼ばせてもらいます」。
うお、言ったぞ。
このスタンスこそが、バチェラーという番組においては、最も重要なスタンスとも言えるかもしれない、と思うわけです。

最初にパートナー候補としての選択肢は25人。
25人の中から必ず結婚相手を決めるこの番組において、「この中には自分に合う相手はいません」とすることはあり得ない
え、それやばくない?と思うけど、これが現実からかけ離れた状況設定かと言われたら、そうでもないような気がしてくる。
自分が今まで会ってきた人や、これから会う人の中でも、ある程度時間をとって会える人はそう多くはない。
目の前にある選択肢のこの中から決めてくださいって言われているのと実質同じくらいに思える。

そしてそして重要なのは、バチェラーでは、ローズセレモニーが絶対的なルールとして存在していて、そこでは、毎回8-9割の人にバラを渡せて次の期間も一緒に過ごせるため、実質、1-2割の渡さない人を選ぶ仕組み、取らない選択肢を選んでいく仕組みになっていること。
それによって、どう愛を育んでいくかということが、番組を見ているときにすごくクリアになっている。
愛を育みにくそうな選択肢を切り捨てていきながら、分散していた自分の気持ちを、徐々に狭めていく可能性に集中させていく
集中させて付き合いが深まり、その対象とより真剣に向き合う。
その中でまたどこに集中させていくかを判断する。
見ているとわかるけど、バチェラーの判断基準は、「さらに深い愛を育めるかどうか」であり、その一つに、「お互いに素がさらけ出せるかどうか」が重要な要素として確実にある。
お互いがお互いのありのままでいて、その間の関係性を、どう発展させていくことができるのか。

そしてまた重要なのが、ローズセレモニーは定期的に行われること。
その時にこれ以上過ごせない人が決まっていく。
永遠に選択を先延ばしにして、一定程度好きな人たちと過ごし続けるということが許されていない。
頻度と期間は事前に共有されていて、その時までにバチェラーは判断しないといけないし、パートナー候補も、もっと一緒に過ごしたい、残したいと思われるために何か印象に残さないといけない。
本当に好きなものとか人が仮に存在するとして、それを見つけられるのが死ぬ前日とかだったらきつくないか…?っていう問題が、実際はかなり深刻にあるから、えりすぐること自体に時間を割いているよりも、愛を深めていくところに時間を割いたほうがいいでしょっていうことを、強くメッセージしているかもしれないなとか思ったり。

なんで最終的に1人に選ばないといけないのかっていうのも、「1人じゃないと不倫だから」っていう、よくある無思考ではないと思う。
相手との関係性の芽を育てていった先の未来を幸せなものとして信じた上で、それを手に入れるには、自分が相手との関係性に全力でたくさんの愛情を注ぎ込んでいく覚悟があるからだと思う。
深い愛を育むにはきっと、愛情を注ぐ先が分散しすぎているのは厳しいんだろうな。
自分のやりたいことにも注いでいるし、家族が増えたらそこにも注いでいくことになる。

そういえば、結婚という契約の形も、自分だけで主体的な姿勢を続けるのは難しいからこそ必要な社会的な誓約(制約)なのかもとも思ったりもする。


「ステキな人」

本当にやりたいことをやっている人がステキだと思うのは、それと巡り会えた幸運でおめでたいのではなくて、目の前のものに対して自分で愛を育んだ努力の結果を讃えたい気持ちなのかもしれない。
いろんなことにハマっている人は、愛を育むのが上手い人なのかもしれない。
世の中の成功者は、本当にやりたいことと偶然巡り会えたラッキーな人たちではなくて、目の前のことに本気で全力を注ぎ込んで、本質を楽しんでいる人たちなんだと思う。
そういえば、「プロフェッショナル仕事の流儀」も、偶然自分の天職に出会う物語ではなく、それぞれの形で目の前のことに愛を育み、築き上げてきた人たちの物語だと思った。
「自分がやっていることは本当にやりたいことではないのかもしれない」人たちも、多分その途上にいて、目の前のことに向き合っていて、同じようにステキだなあと思うのです。

マッチングの最適解があると信じて、それを待つことも、辛抱強く探し続けることもできるのかもしれない。
いい人がどこかにいたらいいなあって言っていたらいつか、いい人が突然目の前に現れることもあるのかもしれない。
ある日、白馬に乗ったプリンスが自分の前を通り過ぎ、それから振り向く瞬間を待ち続ける人生を生きていくのか。
どんな人生がいいと思うか、人によって違うとは思う。

本当にやりたいことと、好きな人と、結婚観と、いろいろ書いちゃったけれど、
まとめると、僕は、
マッチングの最適解がいつかは現れると信じて待ち続けるのは寂しいから、
目の前の選択肢を相性で切り捨てるのはやめつつ、
目の前のものに時間をかけて、
その間の関係性に対して自分ができることを最大限努力すると、
目の前のものが自分史上最適の解になる
っていうことを前向きに信じている派

であり、
いろんなものや人と愛を育むそのプロセスを楽しみたい派
です。

自分の中では、恵まれる/恵まれないという運に左右されている感覚がなくなり、自分の態度とか捉え方の問題として考えられるようになったのは、生きる上でとっても前向きになれた。

ここまでの仮説しか今の段階ではわかってなくて、
愛の育み方はまだこれから。

今自分が興味ある建築と、これから出会うかもしれない好きになる人と、どう向き合っていくのか、考えながら探りながら、素敵に生きていきたい。

ちゃんちゃん。

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