見出し画像

<男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか>という記事への私見

画像1

記事:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70882


西井開氏の<男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか>という記事への私見を述べていく。


<最近ある少年漫画が流行っているというので読み始めた。主人公の少年がライバルとともに成長しながら迫りくる敵を倒していくという王道のストーリーなのだが、厳しい特訓の最中や強敵に苦戦しているときに、彼が心の中で繰り返し叫ぶフレーズが気になった。「俺は男だ。だから耐えるんだ…」。耐えることと男性であることの間に一体何の関係があるだろうか>

→おそらく『鬼滅の刃』のことを指しているのだろうが、時代設定が大正時代であることに留意する必要がある。因みに、「長男だから耐えられた」といった台詞を問題視する読者もいる模様。


<「男らしさ」は常に我慢、勝利、挑戦、競争などと紐づけられて語られてきたし、またそうしたストーリーを取り込んだ男性たちは無意識のうちにそれに沿うようにふるまってきた。>

→「常に」かは不明だが、そういう模範があるのも確かであろう。「無意識のうちにそれに沿うようにふるまってきた」とあるが、制度による性差が減ってきている現代社会においては、あくまで「そういう傾向が存在する」というだけの話でしかない気もする。


<そのふるまいが、男性自身を生きにくくさせ、周囲に害を与えているとしたら…。>

→この一文から、西井氏が口語的な文体でこの記事を書いていることが分かる。


<他の属性の人が得られない特別な権利や免除のことを特権という。>

→西井氏は<冒頭では、現行の社会構造の中で何の不便も感じずに暮らし、他の人と比べると難なく社会的に成功していく男性の象徴として「デフォルトマン」(p.26)の存在が提示されている。社会の「初期値」(デフォルト)に位置付けられるような標準的な存在というわけだ>と述べており、このことは西井氏が「標準的な存在であるデフォルトマンは特権を持っている」と主張していることを意味している。

ところが、世間において標準的な人々のことを「特別」と呼ぶのは、不自然な日本語である。「他の人と比べると難なく社会的に成功していく男性の象徴」とあるが、「白人・ミドルクラス・ヘテロセクシュアル」という条件は英国において、社会的成功を得る上で有利というだけに過ぎない。また、ミドルクラス(中流階級)出身の異性愛白人男性とアッパークラス(上流階級)出身の異性愛白人男性であれば、後者の方が社会的成功をおさめやすいはずである。

しかも、性別や性的志向や人種によって不当な差別を受けないというのは、特別なものではなく、本来、万人に保障されねばならないものである。それを特別な権利などと呼ぶのは、「性別や性的志向や人種によって不当な差別を受けないこと」が特別な権利であるかのようなイメージを人々に与えかねない点で危険ですらある。

世間では「誰しも、性別や性的志向や人種によって不当な差別を受けない社会」が理想とされているが、西井氏やペリー氏のように、そのことを特権と呼称してしまうと、「誰しもが特権を得ている社会」を理想としていることになる。だが、誰しもが特権を得ているという状況は「特権」や「特別」という言葉の意味と矛盾するのだ。

標準的でないというだけで差別を受けている人々が求めているのは、不当な差別を受けなくてよいという当たり前の権利であり、特権ではないはずだ。



<何か失敗したときその原因を自身の属性に帰されることもない>

→日本において標準的とされる男性が、生まれた時期などによって「老害」だの、「ゆとり」だの罵倒される状況は多々見られる。そのため、この一文は事実に反している。


<それどころか、有名なアーティスト、裁判官、教授、管理職、団体のリーダー、政治家の多くをデフォルトマンが占めていて(例えば日本の総理大臣の座には、デフォルトマン的男性が連綿と居座ってきた)、今後のキャリアを安心して描くこともできる。>

→<裁判官、教授、管理職、政治家>の多数がデフォルトマン的男性というのは確かである。だが、有名なアーティストや団体のリーダーに関しては、そうではない場合も多いかと思われる。

なお、「日本の総理大臣の座には、デフォルトマン的男性が連綿と居座ってきた」という箇所に関しては、田中角栄や安倍晋三といった反例も少なくない。英国においては「マナーもよく、愛想もあって、自信に満ち溢れている人」が首相となっていくのだろうが、日本において、安倍晋三や菅義偉などの人物が「マナーもよく、愛想もあって、自信に満ち溢れている」といえるのかは疑問の余地がある。


画像2


画像3



「今後のキャリアを安心して描くこともできる」という箇所に関しては、「高度経済成長期やバブル期であればそうだったのかな」と20世紀末生まれの私は感じた。


<重要なのは、デフォルトマンにとってはこうした特権があまりに自明で、それを持っていることに気づけないという点だ。ペリーは、この特権を「魚にとっての水のようなもの」だと表現している。>

→デフォルトマン的人間に「障碍者の方って日常生活で不便さを感じることが健常者よりも多いよね」とか「外国出身の方の中には人種差別を受けて苦しんでいる人もいるよね」とか尋ねてみた場合、大多数の人は「そうだね」と答えるだろう。デフォルトマン的人間が「不当な差別を受けている人々がいる」という事実に気づくことは可能であるように思われる。

そのため、<言い換えればデフォルトマンは、その特権や、背景にある属性間の不均衡(例えば男性/女性、日本人/在日外国人、上流・中流/下流階級など)を認識せずにすむ特権を持っている>という箇所は<デフォルトマンは、標準とされているか否かによる属性間の不均衡(例えば男性/女性、日本人/在日外国人、上流・中流/下流階級など)を意識せずに暮らせる場合が多いという点で、そうでない人々と比べて恵まれている>という方が正確である。


<そのため、十分な権利を得られず生活に窮している存在に気付かないし、たとえ気付いたとしても、彼らの努力が足りないのだと片づけてしまう>

→それは、世間で標準とされているか否かということよりも、自己責任論に陥っているか否かということによるのでは?


<デフォルトマンを基準に作られた社会において、彼らは自分たちこそが「普通」であると思っているし、「普通は~」という言葉とともに自身の(恵まれた環境を前提とした)価値観を周囲に押し付けて、価値観に沿わないものを「普通ではない」と見下して排除してきた>

→民主主義国家においては有権者の多数派が主に社会を形成していく。自分は今のところ障碍者ではないが、仮に障碍者となったら、「自分の身体状況って世間では少数派なんですよね」と人々に語るだろうし、「自分の身体状況って普通なんですよね」とは基本的に語らないだろうと思う。

なお、ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語り』で描写しているように、近代社会において、畜群(創造性の乏しいマジョリティー)が「世間で標準的とされる価値観」に沿わないものを排除していくのは事実である。



<本書の中盤からは、デフォルトマンは男性自身にもネガティブな影響を及ぼしていることが示されている。例えばデフォルトマンを内面化した男性たちは、デフォルトマンを頂点とした「得点競争」(p.55)に興じるようになるとペリーは述べ、イギリスの男性たちによる得点競争の数々を紹介・・・男性同士の競争は、直接的な攻撃として表出されることもある。私自身の経験やグループでの経験談に照らしても、そうした傾向は如実にある。グループ内で、背が低い、運動ができない、色が白い、恋人がいないなど、あらゆる理由で周囲からからかわれたというエピソードが語られることは多い。>

→<デフォルトマンを頂点とした「得点競争」(p.55)に興じる>とあるが、福祉制度が完璧ではない社会においては、学歴の競争や就活での競争に加わらないと、経済的に生きていけないため、多くの男性は不可避的に参加せざるを得ないのである。つまり、「興じている」のではなく、「参加することを強いられている」という方が実態に沿っている。



<そしてグループのメンバーたちの多くが、「(競争に勝つ)条件を満たしていない自分が悪い」という自己否定感を抱き、例えば筋トレをすることで筋肉を増やすこと、学歴の高い大学へ入ること、そして一刻も早くパートナーをつくることに焦るようになったと話している。デフォルトマンの作った価値基準は疑われることはなく、むしろ再生産されていくのである。>

→フェミニストの中には、男性に対して「そういった競争から降りてみてはどうか」と提案する人がいる。だが、イケメンになるための競争や、高学歴を求める競争や、高収入を求める競争に降りた男性は、そうでない男性よりも異性のパートナーを獲得できる確率が大幅に下がってしまうため、出産・育児という生物学的再生産へのハードルが高くなってしまうのだ。

(参考:https://archive.vn/z0Cig)



<安心感のある場で自分の気持ちを語り、受け止められるという機会から疎外された男性たちはお互いの間でまたヒエラルキーをつくり、他者より優位に立つことで自尊心を満たすようになる。その結果、自分の困惑や望みや、個人的なことをさらに言えなくなってしまうのだという。>

→ネット上では、「働きたくない」や「結婚は人生の墓場だから異性との恋愛は二次元で良い」という本音を漏らす男性が多い感がある。ただ、非ネット空間だと、そういった発言をすることに様々なリスクがあるためなのか、そういった本音を漏らす男性が多くないという印象を受ける。


<指揮下にいる男性たちは何かにしくじると、自分に価値がないと感じ、自己嫌悪に陥ったり不満を他人に向けたりするのである>

→男性は女性よりも自殺率が高い。また、女性は男性よりも自殺未遂率が高い。(注、自殺未遂の統計は自殺者数の統計よりも正確なデータを集めるのが難しい。)この一文はそういった統計結果の裏付けになっている可能性がある。

画像4


画像5

画像6


(米国や日本国のデータ)

https://www.mhlw.go.jp/content/h28h-1-08.pdf



<また別のメンバーは女性との関わりについて考えるワークで、女性と食事に行ったときのエピソードを紹介してくれた。会計の際、相手の女性が「自分の分は自分で払う」と言っているにもかかわらず、それを制して無理に全額おごったという。初めての食事に緊張した彼は、会計をどうしていいか分からずに焦り、深く考えることなく「男性が女性に奢るべき」という社会通念に従った。「もうそれ以外のことが考えられなくなってましたね」。この関わりは、相手の女性を一段下にいる存在として位置づけるものであり、男女間の不平等な構造を無意識のうちに維持してしまっている。>

→西井氏のこの表現に従うなら、いわゆる「サイフ出すだけ女」は自ら「自分を相手より一段下にいる存在」と位置付けるような行為に陥っているといえるだろう。

https://sirabee.com/2018/02/15/20161504428


<新しい男性とは、達成されるものではなく、常に変化し続ける存在のことだ。自分を縛る価値基準やふるまいに自覚的になりながら自己を更新し続け、社会を改善するための取り組みを継続する。その状態こそが男性には求められていると思う>

→ペリー氏や西井氏は教条主義的な姿勢を危惧している。



<本書の最終章において、ペリーが男性向けのマニュフェストとして9つの権利、「傷ついていい権利」「弱くなる権利」「間違える権利」「直観で動く権利」「わからないと言える権利」「きまぐれでいい権利」「柔軟でいる権利」「これらを恥ずかしがらない権利」(p.197)を挙げているが、これらは他者との対話に欠かせないし、また対話を通して男性たちはこれらの権利を得ていくのだと思う。「男たちよ、自分の権利のために腰を下ろせ」(p.196)。>

→法制度としてはこの9つの権利は既に保障されているといってよいだろう。ただ、この9つの権利の中には、そう主張した場合、世間でバッシングを受けるリスクを生じさせてしまうものも含まれている。

弱弱しい男性より、強い男性に魅力を感じる女性は多いし、「〇〇に傷ついた」と公の場で主張したせいで「頼りにならなそうな男だ」と世間で見下されてしまった男性を私は何人もみてきた。


個人的には男性の生きづらさを減らしていくには、男性自身の意識改革だけではなく、女性の持つ男性観も変わっていく必要があるのではないかと感じている。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?