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<「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?>という記事への私見

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記事:https://bunshun.jp/articles/-/44981

杉田俊介氏の<「真の弱者は男性」「女性をあてがえ」…ネットで盛り上がる「弱者男性」論は差別的か?>という記事への私見を述べていく。


<大ざっぱにいえば、2010年代の反差別論が「ネトウヨや歴史修正主義者は差別者」というものだったとすれば、2020年前後の反差別論は「差別構造に無自覚に加担するマジョリティも同じように差別者である」という方向へと段階が進んできた。ごく一部の極端な差別者のみならず、マジョリティであることそのものの日常的(everyday)な差別性が問題視されるようになってきた。

 その一つが「男性特権」であり、不公平で不平等な性差別的構造に対するマジョリティ男性たちの無自覚な加担の問題である。しかし、マジョリティとしての多数派男性の特権性の問題を自分事として引き受けることに、まだまだ戸惑いや違和感を覚える男性たちも多いように思われる。

 そうした状況の中で、あらためて、「弱者男性」論がネットを中心に注目されている。>

→そもそも「男性特権」という単語自体を知らない男性って多いのでは。



<「強者」とされるからそれに対抗して「弱者」という言葉が選択されるが、そもそも本質はそこにはないのではないか。誰かとの比較や優越によって強い/弱いということではなく、生存そのものとして、惨めで、尊厳を剥奪され、どうしようもない人生があるということ。その事実すらも否定されたら、あとはもう――。>

→今の日本社会では、市場競争の影響等により、優劣の格付け(マウンティング)が広く見られる。

杉田氏はこの記事で<救いがなく、惨めで、ひたすらつらく、光の当たらない人生がある、ということ。そのことをせめてわかってほしい。「多数派の男性はすべて等しく強者」という乱暴な言葉で塗り潰さないでほしい。誰々よりマシ、誰々に比べれば優遇されている、という優越や比較で語らないでほしい。不幸なものは不幸であり、つらいものはつらい。そうしたささやかな願いが根本にはあるのだろう。あらかじめいえば、私は、そうした根本の声は絶対的に肯定されるべきである、と考える。ただし、後述するように、それを「異性にわかってほしい」という承認論によって解決しようとするべきではない、とも考える>と述べているが、「異性に承認されたいのに、承認を受けられず、精神的に苦しい」という人に「君のその声は絶対的に肯定されるべきだけど、承認論(異性からの承認)によって解決されるべきでもないよ」と語るのは、正常な視力を望んでいる失明者の人に「正常な視力がほしいという君の声は絶対的に肯定されるべきだけど、視力回復によって解決されるべきでもないよ」と語るのと構図が似ている。



<色々な幸運に恵まれてかろうじて生きてこれた私のような人間からすると、色々と過酷で厳しい状況にあっても、なんとか闇落ちせずに必死に「踏みとどまっている」男性たちの日々の努力は――比較や優越を付けることなく――もっと肯定され、尊重されていいことに思える。非暴力的で反差別的であろうと努力していること、それは立派でまっとうなことなんだ、と。>

→杉田氏は「ネトウヨやインセルやアンチフェミニズムの闘士になること」を「闇落ち」と表現している。杉田氏は最近ネット上で使われるようになった「弱者男性」という言葉を再構築していこうという社会変革のようなビジョンを思い描いていると考えられる。

だが、世間は弱者男性のみから構成されている訳ではなく、そうではない男性や女性によっても構成されている。自分を弱者男性と感じて苦しんでいる男性の集団が「男性は自己変革すべきだ!」と何らかの意識改革をしたところで、社会全体が変わっていくという保証はない。


<つまり「異性からの承認待ち」ではなく、「自分たちで自分たちを肯定する」という自己肯定の力がもっとあっていいのではないか。そのためには、SNS上での「アンチ」の作業にアディクトしたり、ゲーム感覚で他者を叩くことから、自分たちの日常を解放する必要がある。>

→この一文は、異性からの承認を求めている男性はSNS上での「アンチ」の作業にアディクトしたり、ゲーム感覚で他者を叩いたりしているという前提に立ってしまっていないだろうか?


<「男もつらい」ではなく「男がつらい」から始めよう>

→BLMの和訳でも同様の議論が起こっている。

https://archive.vn/vzyeg



<たとえば私は『非モテの品格』の中で、依存症研究などを参照し、男の弱さとは自分の弱さを認められない弱さではないか、と論じた。自分の弱さ(無知や無力)を受容し、そんな自分を肯定し、自己尊重していくこと。その点では、地位も権力もあって己の特権に無自覚でいられる男性たちよりも、弱者男性たちのほうがまだ「救い」(解放)に近いのではないか。>

→この箇所は様々な問題が絡み合っている。

・男性特権(己の特権)という単語を妥当と考えるのか否か。

・人はポリス的動物である以上、半ば不可避的に他者との交流のもとで自分自身を捉えていくが、自分の弱さを前面に出すような男性を「老若男女からなる社会の構成員ら」は肯定するのか。また、社会から「うだつが上がらないダメ男」などとみなされてしまった男性が「そんな自分を肯定し、自己尊重していく」ことが可能なのか。

・そもそも杉田氏の想定する意味での「救い」(解放)を必要としている男性は、世間でどれほどいるのか。

・「救い」は幸福感と表裏一体な概念だが、杉田氏の想定する意味での「救い」(解放)を受けた男性は果たして幸福と感じるのか。


<他者からの承認を期待することは、それが満たされないと、被害者意識や攻撃性に転じてしまう。それならば、他者からの承認を期待するのではなく、当事者としての自覚を持つこと。自分たちをマイノリティや社会的弱者と呼べるとは思わないが、それでも、非正規男性(弱者男性)としての当事者性を自覚していくこと。承認から自覚へ。そして責任へ。そうした意識覚醒が必要ではないか。

 非正規的で「弱者」的な男性たちには、もしかしたら、男性特権に守られた覇権的な「男らしさ」とは別の価値観――たとえば成果主義や能力主義や優生思想や家父長制などとは別の価値観、オルタナティヴでラディカルな価値観――を見出すというチャンス=機縁が与えられているかもしれないのだ(もちろんそうした著作や思想はすでに様々にあるが、それらを具体的に点検していくことは、別の場で行おうと思う)。

 もはや、そういうことを信じていいのではないか。いや、「私たち」はそう信じよう。

 誰からも愛されず、承認されず、金もなく、無知で無能な、そうした周縁的/非正規的な男性たちが、もしもそれでも幸福に正しく――誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って――生きられるなら、それはそのままに革命的な実践そのものになりうるだろう。後続する男性たちの光となり、勇気となりうるだろう。>

→大きな物語が勢いを失って久しい21世紀で「革命的な実践」というパワーワードを私は久しぶりに見かけ、微かな衝撃を受けた。文化大革命やポルポトの大量虐殺等の歴史的事実を踏まえれば、「革命」という単語にポジティブなイメージを持てる方はまずいないと私は思うのだが・・・。<もはや、そういうことを信じていいのではないか。いや、「私たち」はそう信じよう>とあるが、そのような確信を抱いているのなら、せめて何らかの客観的根拠を提示した方が良いだろう。もしも仮に根拠もなく、<もはや、そういうことを信じていいのではないか。いや、「私たち」はそう信じよう>と述べているのなら、それは信仰でしかない。

文章の説得性を上げるためには、主観と客観のバランスに留意することが大切であると、私は日ごろから考えている。

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