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『ノンバイナリーとは何か 1(ジェンダーアイデンティティとは何か再考 6)』

ノンバイナリーは、もちろん、ジェンダーアイデンティティの一つ。しかし、それは、実際とは異なるものとして、特に日本の人たちには想像されているように思う。

まず、ノンバイナリーか、ジェンダークイアか、ジェンダーフルイドかは、見た目から区別は出来ない。(精確には、そう名乗る人は、そのカテゴリーの人であると、見た目から判断できない。)

それから、トランスマスク、あるいはトランスマスキュリンなノンバイナリーとトランスジェンダーも、見た目からは区別できない。(それぞれを名乗る人の違いも、見て分からない。)

そもそも、日本では、ジェンダーエクスプレッションと、数種類しかないジェンダーアイデンティティが、同じ方向を向くはずだと前提されているように思うが、そもそもそうではない。

ここでの数種類しかないジェンダーアイデンティティとは、女、男、どちらでもない、どちらでもある、くらい。加えて、トランス女性、トランス男性、ノンバイナリー、くらい? そもそも、その理解が間違っている。

さらに、「ジェンダーアイデンティティとジェンダー表現が同じ方向を向いている」とは、どういうことかというと、「ジェンダーアイデンティティが女なら、見た目も女か女的な何かになる」というようなこと。しかし、そういうわけでも、もちろん、ない。たんに、そういう人については説明しやすいので、つまりシスジェンダーの人たちにとって分かりやすいので、まず説明する際に例として用いられる、というだけ、のことだ。あるいは、説明する側が、差別しやすい側の意向に沿って、受け入れられやすい説明をしがちだ、というだけのこと。

しかし、そもそも、これが戦略ミスだと、私は思っている。

さて、アイデンティティは、目に見えないけれど、見て分かると信じられていることが、そもそも多いもの、だ。しかし、そんなにシンプルではもちろんない。部落民宣言も、民族名の使用も、ラディカルな行為であるのは、その現れ、である。見えないものを見えるようにして、問題を訴えることに、そのラディカルさは存在する。

ジェンダーアイデンティティも、基本的には同じ。まず、見て分かることになっている、という事態、それ自体が単純ではない。そうであることが信じ得ることになっているのには、カラクリがあるから。

そのカラクリや仕組みについて解説したのが、『性同一性障害のエスノグラフィ』という本だったのだけれど、大いに誤解されているか、小難しくて、何書いてあるか研究者でも分からないことが多い、みたいだ。なので、それもシリーズで解説を書くことにする。



と、今回以降も、読み物的に敢えて書くことにします。日本の研究者に宛てて書くのには、懲りたので。

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