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『見えない』

同じ街に住み、同じ通りを歩いていても、見えない。クイアである私たちのリアリティ。

安全な家は、私たちにとって、とてつもなく重要だ。なぜなら、しばしば、公的な空間は、被害経験をする空間だから。

心ないことを言われたり、心ない態度を取られたり。一緒に他の人と居ても、その人がたまたま居なくなった時や、見えない、聞こえないところで、それは起こる。

突然、紳士に、Fxxxと言われることもあるし、道ゆく人に顔を顰められることもしばしば。出店を覗いて挨拶しても、無視されたり。この間は、犬を連れた女性に「私の犬はレイシストで、ブラウンスキンは嫌いなの」と言われて、あーそうなんですねと応えた。

別に、そんなの気にすることない、と、そういう目にあった経験のない人が言うことがある。レイプされるわけではない、とか。

なので、こういう経験には、マイクロアグレッションという名前がつけられている。チリも積もれば山となる。結構きついし、傷つくのには、慣れることができない。

だから、家では、くつろげないとしんどい。生まれた家族の元から逃げ出さざるを得なかったから、尚更。私たちには、親を無条件に愛するのは、困難だ。通常、しないとされている経験をしているから。そのこと自体を前提にできるのが、くつろげる家の条件だ。

クイアインクルーシブな家は、世の中にとって、ありがたいだろう。しかし、私たちに必要なのは、同じ経験をしている人たちと住むこと。それが、クイアハウジングの存在意義である。

クイアインクルーシブなら良いだろうというのは、残念なことに誤解であり、その善意が、私たちを余計に傷つける。これが肝要なことなので、強調したい。

自分たちがクイアインクルーシブであるという善意で、私たちを傷つけるな。

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