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世界に挑め!『ベルばら』実写映画化への挑戦 in フランス

1970年代、本気で世界に向けて映画を作ろうとした若者がいた。
彼は会社を辞めたばかりのただの無職だった。

1.日本映画業界の凋落と挫折

 黒澤明が自殺を図ったことを知っている人がどれほどいるだろうか。1971年12月22日、彼は自ら剃刀で首と手首を切った。世界的な名声をものにしていたはずの彼がなぜそのようなことになってしまったのか。

 黒澤明は当時何よりも世界的に人気があった。アクション映画というジャンルで見れば世界一といってもよかった。東宝との契約の問題上、作品の評価に比して十分な報酬を得ることができなかったというが、彼には海外進出という選択肢が当たり前のように用意されていたはずだ。実際、海外からのオファーは数えきれないほどあったという。

 世界からの熱いラブコール、そして黒澤に対する日本の映画会社の冷たい待遇。十分に日本人の手によって世界市場に向けた映画が作られる素地はできていたといっていい。 1966年7月5日の朝日新聞には、黒澤明がアメリカでエンバシイ・ピクチュア(原文ママ)と契約を結び、「ザ・ランナウェイ・トレイン」という映画を製作することになったという記事が掲載されている。機関車の暴走をスリル満点に描くというスペクタクル大作。この作品は莫大なアメリカ資本がないと作れない。

東宝からの黒沢プロ独立後の第一作が”暴走機関車”でも、私は日本映画から”ランナウェイ”するつもりではなく、積極的な姿勢で邦画のために道を開きたい                         (黒澤明)

この記事からは「日本映画界への刺激策」として大作を作ってやるんだという黒澤明の強い意気込みを感じる。

 しかし、結果この作品が完成することはなかった。黒澤明の止まらない機関車の暴走というアイデアはそのままアンドレイ・コンチャロフスキーという別の映画監督の手によって『暴走機関車』という映画になった。この時の原稿を元ネタに作られたハリウッド映画『スピード』は大ヒットすることになるが、黒澤明が結局これらの映画に関わることはなかった。

 理由は黒澤明のやり方が現地の方法と合わなかったからなどさまざま言われているが、ついに借金苦を抱えたまま世界進出にも失敗した彼は自殺未遂を図ることになる。言うまでもないが、それ以降、結局日本映画界は彼以上の人材を輩出できていない。ジョン・ウーがミッション・インポッシブルを監督し、ポン・ジュノ監督作品がアカデミー作品賞を受賞していくなか、ハリウッド大作映画を日本人が監督する機会は今の今までやってきていない。

 そんなどんづまりな日本映画界に突然ある男が出現した。その男は映画会社の人間でもなければ、映画関係の実績も何もない。会社を辞めたばかりのただの無職の若者でしかなかった。しかし、その若者がいきなり10億円という巨大なお金を調達し、世界的なフランスの映画監督ジャック・ドゥミを口説き落とし、戦後初めて映画のロケ地としてベルサイユ宮殿を使用し大規模な撮影を実現させた。ただの日本人の若者がそれだけのことをあれよあれよと実現させていく。奇跡としかいえないようなことが現実にあったのだ。

  もっともっと、彼には国際マーケットへ踏み込んでいってほしい。とにかく、ハラハラさせてくれって言いたい。おかねを払って回収できないハラハラとちがって、彼なら突拍子もない、とんでもないことをやらかすんじゃないかっていうハラハラですよ。              (藤岡豊)

 そのとき彼に出会った誰もが、「彼なら国際マーケットを相手にした映画が作れる。日本映画はまた再び世界で戦えるのだ。」そんな夢を見ることができた。この記事では1970年代実際にあった『ベルばら』実写化をめぐるそんな物語を見ていくこととする。

2.脱サラ青年の気狂いな挑戦

 その男の名を山本又一朗という。元サラリーマン。映画業界とは無関係の世界にいた。しかし、元カミナリ族としてバイクを乗り回し、高校をワルすぎて5年も卒業できなかったという完全な不良だった彼にとって、サラリーマンは耐えられるものではなかった。本人曰く、垂直跳躍願望が強すぎたという。

 三菱銀行の犯人・梅川をみていて、みんな極悪人のようにいうけれど、ぼくにいわせれば、どこかで何かハズミが狂っただけだとしかいいようがないですね。梅川とおれとどう違うんだろうって考えてみると、そう違わないんですよ。ぼくは銀行強盗なんてやらないけど、どっかでわかるんだよなあ、あの狂気が。

 しかし、サラリーマンとはいっても、彼は23歳にして専務の立場にあった。20代から新宿で夜の帝王のように振る舞いどんちゃん騒ぎをしていたというから当時から並みの若者ではなかったのだろう。そして彼は、29歳の誕生日に高輪プリンスホテルの部屋でひとり黙考した。そして「もう俺も20代最後、若くしてうまくやってるけど俺の実力じゃない」という思いにいたった。こうして彼は会社を辞めることを決意する。

 完全な無職になってしまった彼には夢があった。それが『ベルサイユのばら』の実写化だったのである。とはいっても、原作者である池田理代子氏のもとには大手映画会社含む30人以上のプロデューサーが声をかけており、なんとそのすべてが断られていた。なんの実績もなくなんの後ろ盾もない山本は、ほとんど無防備なまま池田氏のところへ飛び込んでいった。

 まわりは彼を気狂い扱いした。そんなの成功するはずがない。しかし、彼はめげずにマンションに半年閉じこもり、日々企画を練った。ベルサイユのばらの実写化には何よりもお金がかかる。外国ロケも必要だろう。だいたい大手映画会社ですら失敗しているのに、原作使用権を得ること自体が絶望的じゃないか。半年閉じこもって練り上げたものの、彼の企画の成功を信じる者はいなかった。池田理代子氏も最初は彼を相手にはしなかった。

 しかし彼は池田理代子氏のもとに足しげく通った。通い続けた。異常な執念の結果、ついにその無名な男がベルサイユのばらの原作権を手にすることになる。これについては池田氏の証言が残されている。

 ベルばらが宝塚の舞台で上演されるよりもずっと早く、山本さんは映画化の話を申し込まれたんです。一番乗りでした。その後、宝塚をはじめ、のべ三十以上の申し出がありましたが、映画の話はすべてお断りしました。そのなかでは、山本さんがもっともしつこくて『主役は栗原小巻で』とか、いろいろいわれました。あんまり熱心なので、私はことわりの冗談のつもりで『外国の俳優で、外国でロケして、というのなら』といったことがあるんです。(中略)何年か経って、突然山本さんが訪ねてこられて『外国の監督、俳優でフランスでロケして』と、それもかなり具体的にいってこられて、私の冗談みたいな言葉を忘れずに、まじめに実現させようとしていた彼の誠実さに打たれました                   (池田理代子)

 こうして、念願の原作使用権を手に入れた山本だったが、こうなると本格的に資金集めを進めなくてはいけない。彼の戦略は、ベルサイユのばらとイメージがぴったりな資生堂、そして『風と共に去りぬ』の放映権に7億もの大金を費やすなど映画に力を注いでいた日本テレビ、最後に映画の東宝に企画書を持ち込み口説くというもの。彼はそれらにこれまたひとり突進してぶつかり、「海外マーケット向けに当たれば普通の映画のヒットとは比べ物にならないほどのリターンが期待できるし、この映画は外国人スタッフにベルサイユ宮殿での大がかりなロケをしたりと普通の映画企画ではない」と、まだ何も決まっていないことを、口八丁手八丁で語った。

 冒険したのはぼくじゃなくて企業ですよ。ぼくは無一物、企業は何億の金を出したんだから。ぼくが企画を持ちまわって、企業が興信所を使ってぼくを調べはじめたと知ったときは、釣り糸の浮きがピクピク動き始めたと思って、しめたっと思った

 ついに、三社とも話に乗ってくれることになった。集めた金額は総額で10億円。黒澤明の名作『赤ひげ』の制作費が2億円というからざっとその5倍だ。とんでもない大金が山本の背中にのしかかってきたのである。

 資生堂、東宝、日本テレビの三社がスポンサーだったんですが、最初は、三社とも”本当に他社も話に乗っているのか”と信じなかったですね。東宝本社に三社集まってもらって、いわば『山本をつるしあげる会』みたいのがあって初めて納得がいったようです

3.無謀な旅から、国際プロジェクトの始動へ

 原作化権も手に入れ、資金も集まった。あとは外国人スタッフ、キャストそしてロケ地の承諾を得るだけである。といってもこれは並みたいていの仕事ではない。だってまだなんの足がかりもツテもないのだから。まず彼は、大金を大胆にもつぎこみ1800ページにおよぶ原作漫画をすべて英語とフランス語に翻訳した。そして、それら持って自ら米英仏へ海外に飛び込んでいったのだ。

 ロンドンでは、かたっぱしから映画人に電話をかけ、ひたすらに企画を売り込んだ。この旅の中で彼は『シャイニング』撮影中のスタンリー・キューブリックと20分ほど話をしたという。英語なんてまったく話せなかった山本は胃に穴が開くほど勉強をした。日々英字新聞を読みこみ格闘、ついに英語だけでなくフランス語も話せるようになった。

 さすがの名作である。翻訳された『ベルばら』は現地では非常に評判がよく多くの映画人の関心を誘った。そうして、山本は『マイフェアレディ』のジョージ・キューカーをはじめ様々な監督と面談・ディスカッションをすることとなる。そのなかでもっとも『ベルばら』に興味をもったのがカンヌ映画祭で最高賞を受賞した名作『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』などの名作ミュージカル映画を世に送り出したことや、名優カトリーヌ・ドヌーヴを世界的女優に育て上げたことでも知られる巨匠ジャック・ドゥミであった。

 映画の中で”夢”を語りたいと思っていたジャック・ドゥミは保守的となってしまったフランス映画界では作りたい映画がうまく作れず、活躍の場を奪われていた。そんなときこの『ベルばら』の企画が舞い込んできたのである。ジャック・ドゥミは水野春朗氏との対談で次のように語っている。

 いつの時代にも共通する情熱の物語であるところに興味があったんです。愛情の物語というところが世界中どの国の人にも共通する事だし、フランス革命という巨大な社会の変革期が背景です。このフランス革命というのは、人権の獲得という世界自由のシンボルでもあるわけですね。それだけに世界中の人々が興味をもっているわけです。その背景の中での愛の物語という点が、私の心を動かしたんですね。 (ジャック・ドゥミ)

 旬を過ぎた映画監督は、日本のフランス革命を描いた傑作漫画に、世界市場で返り咲くひとつの可能性を見出したのだ。こうして、山本は世界的な映画監督を味方にすることに成功した。こうなれば早い。ジャック・ドゥミのもとにオーディションは開かれ、次々とキャストは決まっていく。そのなかにはフランス人だけではない多くのイギリス人スウェーデン人が含まれていた。いつの間にかに山本のホラはホラではなくなっていた。完全に現実のものとなっていたのである。不可能なことなんてなかったのだ。こうして、日本映画史において類のない世界的大プロジェクトが動き出した。このときすでに日本中が注目していた。新聞の記事の投稿欄には「ベルサイユのばらの実写化は今どこまで進んだんですか」と投稿がされた。

日本ではむろんのこと、世界のマーケットを席巻してみせる。(中略)私は今度『ベルばら』でそれ(角川映画)をしのぐ国際的なスケールの仕事をしたいんです

4.立ちはだかるフランス政府の壁

 ここまで数々の関門を打ち破ってきた山本であったが、ベルサイユ宮殿をロケ地に使うとなると難儀であった。なにせフランスの映画人ですら戦後数十年一回もロケ使用の許可がおりたことがなかったのだから。

 もっというとかつて1977年三越がベルサイユ宮殿でパーティーを開いたことはあった。その際も、ロスチャイルド家とアラビア王家が法外なお金を支払いパーティーを開いたという伝説があるほかには前例もほとんどなく、当然のようにフランス政府は三越の申し出に承諾するのを渋った。三越側も負けじと、フランス文化を展覧会で紹介した功績を強調したり、ベルサイユ宮殿『皇后の間』にシャンデリアを寄贈したりと大変な努力をおこない、そうしてなんとか一年にも及んだ交渉に決着をつけたという。そんな大変な大仕事を山本というただの若者にできるわけがない。それに許可が出たとしても莫大な使用料がかかるだろうと思われた。

 山本はまずベルサイユ宮殿をどこが管轄しているかを調べた。文化大臣だとわかったもののいきなりそんな人とは話はできない。そのためまず日本大使館に向かい企画を持ち込んだ。企画の趣旨は「日仏文化交流」これ一本で押し通した。「こういう取り組みが真の文化交流になるのだ」と言い続けた。
 彼はどこまで弁が立つ人なのだろうか。文化省に、中央映画庁、ルーヴル美術館のなかにあるフランス国立美術博物館総局の総局長ムッシュ・ランディとあれよあれよと重要人物を次々と口説き落としていった。どこまでいっても「日仏文化交流」で押し通した。最後にはジャック・ドゥミの力が助かった。前文化大臣がなんとジャック・ドゥミと仲が良かったのである。 

 こうして、前文化大臣ルートも駆使し、ついに借りれるかもしれないということになった。念願のベルサイユ宮殿ロケまであと少し。なんと6月27日には正式回答をくれるという。山本は一日千秋の思いでフランス政府の正式回答を待った。しかし、その日は回答が来なかった。
 それもそのはずなんとその日、ベルサイユ宮殿は過激派組織の手により一部を爆破されるというテロ事件が起こってしまったのである。当時の新聞によるとこの爆破によりナポレオン時代の名品が25点ほど失われたという。大事件だった。その日、山本は一睡もできなかった。
 その次の日も、その次の日も回答は来なかった。どこまでも山本は眠ることができなかった。しびれをきらした山本は自ら総局に結論をもらいに出向いた。

 結論はOKだった。こうしてついに、戦後誰もなしえなかったベルサイユ宮殿のロケ使用を許可させたのである。

 7月24日にベルサイユのばらの撮影ははじまり、9月に入るとベルサイユ宮殿のロケが始まった。いざはじまると、大変な賑わいを見せた。現地のフィガロ紙など一流新聞社が取材にかけつけ、日本の新聞・雑誌は各社連載でその模様を追った。おかげで当時の撮影の様子や日程は今でも詳細を知ることができる。とはいっても、華やかな撮影現場の裏でショーケースを撮影中に壊してしまったり、吸い殻が見つかってフランス側を激怒させたり、山本氏とジャック・ドゥミがラストシーンの撮影をめぐって大喧嘩をしたりと様々な事件は起こっていたようだが。

 実際のベルサイユ宮殿の調度品が小道具として使われるなどの大盤振る舞い。これだけの贅沢なロケ地使用を二週間もしておきながら、かかった費用は1000万円を下回るという。三越がパーティーで使用した際の使用料と比べるととんでもない破格の値段だ。これは「日仏文化交流」を押し通した山本氏の見事な手腕としか言いようがない。(一方そんなことも知らぬ当時の雑誌では億だとか円パワーにものを言わせたなどと書かれていた)

 それにしても、夢のような映画企画である。ジャック・ドゥミ監督を中心に、外国人の一流映画人(『幸福』で有名なアニエス・ヴァルダや、映画音楽で著名なミシェル・ルグランも参加した)が一堂に会し、日本資本で、日本の若者を中心に映画を作っているのだから。しかも場所は、ベルサイユ宮殿である。こんな企画は二度とない。

 僕にとって、こんなにも楽しい映画の撮影現場は初めてで、欧米の一流映画人と、日本人が、こんなにも自然に楽しく仕事をしていることに、僕は少なからず感動してしまった。日本映画にとって、確かに新しい時代が今始まっている。                      (小松沢陽一)
 『ベルサイユのばら』の誰かが、もしオスカーを受賞したら、それこそ世界中がわき返る大事件となるだろう。そんなでっかいユメもある。

 当時の雑誌もこの調子だ。当の山本氏も新聞でずいぶんなことを言っていた。

 ぼくとしては、外国でのプロダクションではこの程度のことが出来る、ということを見てほしいのです。日本映画作りの新しいケースとしてね。それで、日本映画産業が国際的な場に出ていくきっかけになれば・・・・・・おこがましいけど、そういう気でいるんですね。

 誰もが成功を確信していた。日本映画の明るい未来を夢想していた。

5.世界への夢のあとさき

 実写版『ベルサイユのばら』は、資生堂のCM広告として大々的なPRがされた(カネボーもキャッチコピーにばらの言葉を盛り込み大々的に広告を打ち、その様子は薔薇戦争と言われた)のち、鳴り物入りで公開された。
 しかし、一部の好事家をのぞき、大衆の評価は決して芳しいものではなかった。

 池田理代子原作の波乱万丈のメロドラマ性、宝塚歌劇の華麗なるロマンーー両者がクロス・オーバーしての「ベルばら」イメージが、日本では出来上がっていたと思う(中略)ジャック・ドゥミ演出の映画「ベルサイユのばら」はそれを期待していたファンをガッカリさせているらしい。(中略)何か大ミュージカル映画を見に行くようなときめきを予感しながら、「ベルサイユのばら」に遭遇したのであるが、その期待はあっさり裏切られる。               (高橋聰)

 失敗の理由はさまざまあるだろう。『ベルサイユのばら』という歴史活劇と、女性映画を撮ってきたジャック・ドゥミという監督の特性がうまくマッチしなかったことや、現場が多国籍すぎてコミュニケーションが円滑に進まなかったなどもあるだろう。
 また、脚本執筆の時間がたった一か月しかなかったという点も原因として挙げられる。というのも脚本担当となったパトリシア・ナップはインタビューで、一か月しか与えられなかった時間のなかで、ベルサイユのばらの原作をすべて読み、さらにそれを短時間にまとめあげるという作業に非常に苦労したと述べているのだ。そもそも脚本の執筆に限らず、映画製作自体が突貫工事のような部分があった。質に難があるのはしようがないといえる。

 こうして期待に反し、興行的に成功とは決していえない結果となった。また、ジャック・ドゥミの作品としても一本の日本映画としても『ベルサイユのばら』はまったく評価の対象にならず、ほとんど存在は忘れ去られ、気が付けば一部の人の話題にあがるカルト映画でしかなくなってしまった。

 もっと酷かったのは、当初の目論見に反し、国際マーケットではまったく相手にされなかったという点だ。評価が原因ではない。もともと国際マーケットは日本資本の映画なんぞ相手にする気はさらさらなかったのである。結局、アメリカでは一部のケーブルテレビで放送されるにとどまり、フランスではまるで上映・放映されることはなかった(これは映画が英語で制作されたことも影響してるだろう)。とにもかくにも、国際マーケットへの壁は想像を超えて高かったのである。

 今の日本映画界で、国際マーケット相手に映画を作れる人は実写の世界にはいない。今後ネットフリックスなどの配信市場も加わり状況は変わってくるのかもしれないが、厳しい状況は続くだろう。
 しかし、ベルばらが教えてくれるのは挫折と失望ばかりではない。ただの若者でも誰もが夢見る大仕事ができるのだという希望を与えてくれるとという側面もある。よく考えてみれば、案外この世界は不可能なことばかりではない。人が人を動かすのだ。高い志があれば、ただの若者でもたくさんの人を動かし世界を変え、夢を与えることができる。大人が思ってるより、やればできることは多い。最初から諦めてはいけない。

 実写版『ベルサイユのばら』は今も私たちにそんなことを教えてくれている。わたしはそんな気がしてならない。

主な参考文献
 ・週刊サンケイ「”希代のホラ吹き”でも通る『ベルばら』プロデューサー の実力」
 ・週刊現代「データバンクにっぽん人第36回 山本又一朗」
 ・キネマ旬報「理想主義で勝ち続けなければならない映画作りとは」
 ・キネマ旬報「日本映画批評 ベルサイユのばら」
 ・キネマ旬報「『ベルサイユのばら』撮影快調」
 ・現代「山本又一朗 ベルばらからハリウッドへ」
 ・週刊明星「『ベルサイユのばら』映画化の超国際的内幕」
 ・週刊文春「国籍を超えて”和製洋画”「ベルばら」を製作した元不良少年の意気軒昂」
 ・スクリーン「水野春朗連載対談「ベルサイユのばら」に夢を求めて・・・」
 ・マーガレット(だったと思う)「『ベルサイユのばら』特報③パトリシア・ナップに独占インタビュー」
 ・朝日新聞と読売新聞
 ・山本又一朗『ザ・メッセージーウジウジするな でっかく生きろ』(1983)
 その他いろいろ



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