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【感想】『マッドマックス 怒りのデスロード』を見た (追記有り)

1.あらすじ

 今更ながら、2015年に公開された映画『マッドマックス 怒りのデスロード』を見ました。実は見るのは二度目なのですが、だいぶ自分のなかで見え方に変化があり、また自分にとってすごく重要な作品となりそうなので、今日はこの映画を見て考えたことについて書きたいと思います。知っている方も多いとは思いますが、まずは簡単に映画の内容を説明します。

 舞台となるのは核戦争により荒廃した世界です。リンクを貼った動画をご覧ください。文明は完全に滅びさり、見渡す限りの砂漠が広がっています。そのなかで武器戦車がかろうじて残されていることがわかります。

 この砂漠にある一つの集落が物語の中心となります。その集落ではイモータン・ジョーという男が、資源の独占および群衆に宗教的な権威を信じ込ませることで、集落を完全に支配していました。そして人々は、事実上の奴隷として役割を与えられ道具として利用されることとなります。

 この映画の主人公は、マックスという男です。彼もまた集落の人々と同様にイモータン・ジョーらに捕らわれてしまい「輸血袋」という道具として利用されることとなります。

 この世界には、核戦争による放射線起因の病気で余命がわずかしかない若者が非常に多く、彼らにはいわゆる特攻隊のような役割を担わされていました。そんな彼らを少しでも生き長らえさせ、戦闘で役立たせるためには、元気で健康な血が必要です。その供給源として誰にでも提供可能な血液型を持つマックスは利用されることになったのです。

 そしてその供給先となるのが、ニュークスという男です。ウォーボーイズという集団に所属し、イモータン・ジョーのために死ぬこと、すなわち名誉の戦死こそが絶対的に素晴らしいことであり、生きる意味・目標であると信じ切って疑いません。マックスはこのニュークスという男と血液の供給元・供給先という関係で道具のように、物理的に連結させられてしまいます。マックスは完全に自由を奪われてしまったのです。

 そして、事件は起こります。というのもイモータン・ジョーお抱え軍隊の名戦士フュリオサが裏切ったのです。それもなんとあろうことかイモータン・ジョーの妻たちも一緒に引き連れ、戦車を爆走、集落を逃げ出したのです。
 この妻たちは多くの人間が道具として利用される集落でも最も象徴的な存在といえるでしょう。というのも彼女たちもまた単なる子供を産むための道具でしかなかったのです。

 愛する妻たちを奪われた独裁者イモータン・ジョーは怒り狂います。こうして、ウォーボーイズらが操縦する戦車軍団(もちろんこの中に主人公のマックスニュークスはいます)と、やがて解放の英雄になる”事実上の主人公”フュリオサの疾風怒濤の追いかけっこが始まるのです。

 だいたいここまでが開始16分。こんな感じで、極端に削られたセリフ数と圧倒的演出力で世界と登場人物の説明を追えたあとは、ひたすら追いかけっこです。
 この映画が、全編クライマックス、究極のヒャッハー映画と言われるゆえんがここにあります。この壮絶な追いかけっこ描写は、映画史に残る名追いかけっこ映画、『駅馬車』『ベンハー』のさらにその先をいっているのでしょう。長時間(ほぼ全編繰り広げられることを考えると驚異的です。このあたりは『キートンの大列車追跡』が作劇的に近いといえるかもしれません。知らんけど)一分たりとも飽きさせないアクションシーン。尽きないアイデア。エンタテインメント性抜群の強烈な視覚効果に途切れないサスペンス。アクション映画の金字塔という評価もおおいにうなずけます。

 ここまで簡単にマッドマックス怒りのデスロードについて説明してきましたが、この映画は、「道具として利用されていた各登場人物が戦士であるフュリオサを中心に、おのおのが闘うことを決意し、おのおのが実際に闘うことで人間の尊厳を取り戻す」という内容になっているといえるでしょう。

2.すばらしい新世界とマッドマックス

 このように『マッドマックス怒りのデスロード』は見るからに望ましくない未来を描いた作品です。一方でこの世界にはぱっと見たところ望ましい未来を描いているように思える作品がたくさんあります。
 たとえば『すばらしい新世界』のような作品です。「ぱっと見たところ望ましい未来」と書いたのは、この手の作品ではそうした理想世界は否定される運命にあるからです。つまり、「一見すごく良い世界に見えるけど、よく見てみるとそうじゃないよね?」という描かれ方をされるということです。あるあるですよね?

 しかし、私はそこに描かれる理想世界がうらやましくてしかたありませんでした。特に先ほど例であげた『すばらしい新世界』に描かれる理想世界。何度そこに生まれてみたいと本気で願ったことかわかりません。

 『すばらしい新世界』で描かれる理想世界は、すべての人が階級に完全にわかれていて、それぞれが役割をあてがわれています。さらに小さい頃からの洗脳教育により、生きがいや価値観もその社会で生きる上でもっとも適切な形になるようにあらかじめ植え付けられています。
 そういう意味では、完全な管理社会であり、自由なんてものは存在しません。が、その結果としてすべての人間が「みんな誰かの役にたっている。いなくていい人などいない」と思えるようになっています。さらに、もしうっかりメンタル不調っぽくなったとしてもソーマというまったくもって無害なドラッグが開発されているためまったく問題ありません。おかげさまで不快な気持になることは一切なく、一生幸せを感じたまま生きていくことが出来ます。まさに理想です。

 なぜこの世界に憧れていたのかは簡単です。今、僕たちが生きている世界で、「みんな誰かの役にたっている。いなくていい人などいない」と思うことはとっても難しいことだからです。新入社員として会社に入ればたちまち慣れない仕事をワケもわからず大量に投げつけられ、そのなかで怒鳴られ蹴られ、まるでゴミのように扱われるようになります。やがてみんな病んでいき、壊れていきます。そして「無能」と捨てられ「自己責任」のゴミとなります。(これは一般論です)
 そんな中でも私たちは「誰かの役にたっている」と思えるようになるために、特殊な努力をしなくてはいけません。自己啓発です。私たちは自己啓発本を大量に読み、セミナーに参加し、社員研修で大声で叫ぶことで、生きがいも価値観もその社会で生きる上でもっとも適切な形になるように矯正していくのです。大きな痛みを伴って。こうした努力の末、適切な価値観を手に入れたとしても、その先は果て無き戦いです。勝てるとは限りません。負ければ結局ただのゴミです。

 こんな社会に生きるより、すべてがすでに出来上がっている『すばらしい新世界』のほうがいいに決まってる。私はそう思っていたのです。


 さて、この『すばらしい新世界』で描かれている社会と、『マッドマックス怒りのデスロード』で描かれている社会は実は非常に似通っている部分があります。次は、そのあたりについて説明していきます。(この映画は、すぐれたフェミニズム映画でもありますが、この文章は男性視点に偏った文章となってます。申し訳ございません。)

3.人間の尊厳って何?

 『マッドマックス怒りのデスロード』は、おのおのの登場人物が人間の尊厳を取り返す話であると書きましたが、実はおのおのが置かれていた状況はそれぞれ違っていました。簡単にまとめてみると以下のようになります。

 ・マックス:
   物理的な自由すらありませんでした。さらに道具として生きることに
   対して、異議があります。しかし、道具として生きるしかありませ
   ん。 ⇒鎖を解くことで「道具としての自分」からも物理的にも自由
   になります。

 ・妻たち
   物理的な自由はありますが、そもそも道具として生きることに対し 
   て、異議を唱え、実際に逃げ出すことには成功しています。が、追わ 
   れています。 ⇒逃げ切ることおよびジョーを殺すことによって自由 
   になります。


 ・ニュークス:
   物理的な自由はあり、さらに道具として生きることに対しても全く異 
   論はありません。しかし、彼は洗脳されており自分で考えたわけでは 
   ありません。

 ここで大事なのは、最後のニュークスです。このニュークスがまさに「すばらしい新世界」的な人物として描かれているのです。共通点としては、本人としては、自分の意思に従って行動できているためいたって幸せなのですが、そもそも道具として有効活用できるように洗脳されているという点でしょう。この部分については、太平洋戦争時における特攻隊的ともいえます。また薬物(銀色のスプレー≒ソーマ)を多用している点も似ているといえるでしょう。

 あんなに理想的に見えていた「すばらしい新世界」と、見るからに残酷な世界である「マッドマックス怒りのデスロード」がニュークスという登場人物によってこうして重なってしまいました。「すばらしい新世界」をユートピアと信じて疑わなかった私はこれに気づいた際、戸惑ったのと同時に、なぜ「すばらしい新世界」がディストピアであるかを理解しました。

 「マッドマックス怒りのデスロード」が人間の尊厳を取り戻す話であるのであれば、ニュークスはもちろん人間の尊厳を失っています。ニュークスに人間の尊厳がないのであれば、すばらしい新世界の住民も同じです。だから「すばらしい新世界」はディストピアなのです。そしてそれに憧れる私もまた人間の尊厳などなかったのです。

 では、ニュークスはどのようにして人間の尊厳を回復したのでしょうか?回復したいのが単に自由であるならば、マックスは鎖を解けば終わりですし、妻たちは逃げ切れば成功です。ニュークスにとっても洗脳を解けば終わるでしょう。しかし、そうではありませんよね。自由を得てもなお取り戻せない人間の尊厳ってそもそもなんでしょうか? 

 きっとこれも簡単な問題ではないのでしょうが、「自分で道徳のルールを考えて、自らそれに従っている」これが人間がその尊厳を取り返した状態と言えるのではないでしょうか? これができるのは人間のほかいません。動物にはできない人間らしい尊い生き方なのです。少なくともこの映画ではそのように描かれているように見えます。

 たとえば、マックスは映画の前半では意思とは無関係にニュークスに対して輸血をしますが、映画の後半でも怪我を負ったフュリオサに対して輸血を行います。この両者は決定的に違います。
 というのも前半とは異なり、後半の輸血ではマックスは自ら考えた道徳のルールに従い、自らの意思でフュリオサに対して輸血を実施していますから。

 これはニュークスも同じです。映画の前半で何度も自ら爆弾となり自死しようとし失敗しますが、後半では見事に自ら爆弾となり死にます。もちろんこの両者も決定的に違います。前者は洗脳の結果でしかありませんでしたが、後者は自らの考えた道徳のルールに従って愛する人を守るために死んだのです。

 このようにして、映画内ではひとりひとりが尊厳を取り戻そうとしました。では私はどのようにすれば人間の尊厳を回復することができるのでしょうか?

4.私たちの安らぎのパーキングエリアはどこですか?

 この問い、私にはひとつだけ落とし穴があるように思えます。それは、どうも感覚として人間の尊厳を取り戻す前にはまず、人の役にたつ人間として社会に承認される必要があるように思えるという点です。

 イメージとしてはマズローの欲求五段階説のような感じです。まず、生存欲求を満たせるようになって、次に人の役にたつ人間として社会に承認されたいという欲求がくる。そして、その欲求が満たされたらようやっとはじめて人間の尊厳の話に移ることができる。世の中にはルールとしてそういう順番を踏んでいかなきゃいけないような気がします。

 たとえば、『逃げるは恥だが役に立つ』の森山みくりを思い出してください。ドラマ序盤の彼女は、派遣切りにより職を失い、父母の引っ越しにより住む場を追われます。生存が危うい状態に陥ったのです。

 さらに、彼女は、就職活動の際に徹底的に社会から拒絶され派遣先では「小賢しい女」と周囲の男性から疎まれていました。社会の役にたっているという感覚も得られず、自分に自信がない状態にあります。

 そんな彼女がとった行動が賃金の発生する雇用主・従業員の関係を前提とした契約結婚でした。これははためからすれば、生活・人生まるごと自分を商品として売りに出すような行為に見えます。それこそ人間の尊厳をなげうっているみたいです。しかし、みくりにはそんなつもりはありません。生活の安定を得て自信を取り戻した彼女は、各所である種の呪縛であったり搾取であったりと闘えるようになっていきます。このようにステップを踏んで上昇しているように見えます。

 逆に言えば、尊厳のために闘っている人たちを見たとき、彼らがもうすでにそれらすべてのステップを達成した人間であるように思えてうらやましくなったり、もっといえば妬ましく思ったりすることもあるかもしれません。私たちは生きるために必死なのに。社会の役にたつ人間として社会に承認されるためだけでも大変なのに。いいなあいつらは。どうせ僕たちを見下しているんだろうな。そう思うようになったら、それは危険に思えます。

 しかし、現時点目の前の現実は厳しいですよね。ただ生きていくためだけに必死です。どこまでいっても、「男として一人前だと認められたぞやったー!」と喜べる日が来るとは思えません。ミスチルの歌詞に出てくる「安らぎのパーキングエリア」はどこにもあるようには思えません。であるならば尊厳というものは一部の選ばれた者たちだけしか手に入らないものなのでしょうか。やはり諦めるしかないのでしょうか。

 私はそんな追い詰められてしまったとき、『男たちの旅路』を見たくなります。そもそも私が『マッドマックス怒りのデスロード』を見たのは、『マジョリティ男性にとってのまっとうさとは何か』という本で紹介されていたからでした。どうすれば男らしさの呪縛から逃れられるのか。男としての苦しみとどう向き合えばよいのか。いまだにまったくわかりません。この『男たちの旅路』という作品は特攻隊の生き残りである鶴田浩二演じる吉岡司令補が、戦後生まれの若者と向き合い、新たな男らしさを探る作品としても見ることが出来る気がします。私はどうしてもそこに救いを求めてしまうのです。 

 しかし、改めて見てみるとこの作品は「逃げろ」と言っているのではありませんでした。「闘え」と言っているのでした。今ならそれがわかります。

5.さいごに

 そういえば改めて振り返ってみると『マッドマックス怒りのデスロード』の登場人物たちも最初はユートピアである緑の地を目指し逃亡を続けていました。そういう場所があるんだと信じて。

 しかし物語の中盤そんなものは存在しないことが判明します。せっかく逃げたのに、これでは生きてはいけない。そして絶望するのです。しかし彼らは諦めたりはしませんでした。彼らは勇敢にももといた残酷な世界へと戻り、厳然たる現実と闘うことを決意するのです。このシーンはこれ以上ない美しい場面でもあります。

 そうです。『マッドマックス怒りのデスロード』は尊厳を取り戻したいのであれば、闘わなければいけない。そういう映画だったのです。
 この映画を素直に受け取れば、逃げるにせよ向き合うにせよ、なんにせよ。私たちは闘わなければいけないのです。外の世界にユートピアなんてないのですから。

 それによく考えていください。もっとも勇敢に涙を流しながら闘ったフュリオサは、さっきの話で行くと生存も承認も両方ステップを踏んで高みにいなくてはいけないですよね。じゃなくと、闘えません。でもどうでしょう。彼女の生存基盤はしっかりしているように見えたでしょうか。元はそうだったのかもしれませんが、彼女はそれらをすべて捨て去っています。闘うためにそうしたのであれば先ほどのステップの話とは矛盾しますよね。

 そもそもステップの話はなにやら危ない部分がありました。それは、尊厳のために闘っている人たちから見下されているように感じるといったものでしたが、たぶんそれはマウンティングの世界から尊厳の話をとらえようとしているからではないでしょうか? 私たちはうっかりするとマウンティングの世界に巻き込まれてマウンティングの戦いに参加させられてしまいます。そして知らず知らずに他人に対してマウンティングをしてしまい、他人からマウンティングされているように感じる。私たちが尊厳を取り返すためには、まず最初にこのマウンティングの世界から抜け出さなければいけないのかもしれません。

 そういえば、『マッドマックス怒りのデスロード』でも尊厳なき行動と尊厳ある行動は内容自体は一緒でした。それはマックスであれば輸血であり、ニュークスであれば自死だったのですが、これは私たちにとって希望に思えます。というのも尊厳があるかないかというのは、外からその行動を見ただけではわからないものだということを示しているからです。何も誰もがフュリオサのまねをする必要はないのです。

 また、これはつまり、同じように出世競争の渦中にある二人がいたとしても、一人は尊厳を投げうってマウンティングのために闘っているのかもしれませんが、もしかしたらもう一方は自分で決めた道徳のルールに従って何かと闘っているのかもしれないということです。一人一人の意識の問題ということになります。

 そもそもどんな仕事であれ、本質がマウンティングであるなんてことはありません。職場がどことか、社名がどうとか、時価総額がいくらだとかそういうのは絶対的に本質ではない。それは間違いないです。まずそこから考え方を変えていくことは私でもできるような気がします。

 たたかわずに生きていくことはできないし、人生に正解なんてない。一生、安らぎのパーキングエリアが訪れることがないのであれば、、、私は尊厳のために闘ってみたい。そう願う今日この頃なのです。



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