ハリウッド映画界における"バレエ出身者"の活躍史

はじめに

LE SSERAFIMというK-POPグループの代表曲”ANTIFRAGILE”に、「忘れないで 私が置いてきた toe shoes この一言に尽きる」という歌詞があります。

https://www.youtube.com/watch?v=pyf8cbqyfPs

この歌詞を歌うKAZUHAは、もともとオランダ国立バレエアカデミーに留学しながらバレリーナを目指していました。この歌詞は、バレリーナからショービジネスの世界に転向することを決断したKAZUHAの覚悟を表しているものになります。実際、KAZUHAが履いているのはトゥーシューズではなくスニーカーです。

では、このようにバレリーナを志していた人がショービジネスの世界の中心に転身する例は過去にどれほどあったのでしょうか? 

その際、彼女たちはKAZUHAのようにトゥーシューズを脱いだのでしょうか……??

ミュージカル映画全盛期のハリウッドを中心に(私が書くのでごめんなさい)、今回は「バレエ出身者のショービジネスでの活躍史」をテーマに記事を書きたいと思います!まさに「わたしのバカせまい史」です。

ロシア・バレエ団からはじまった

まだ映画に音がなかった時代、バレエが過去のものとなりかけていたヨーロッパやアメリカに大きなセンセーションを巻き起こしていたバレエ団がありました。それが「ロシア・バレエ団(バレエ・リュス)」です。

ロシア・バレエ団をはじめたのはディアギレフという人物。彼はダンサーや振付師だけでなく、前衛作曲家や画家、詩人などを結集させバレエの総合芸術化を見事に成功させました。

1909年のパリでの公演をはじめにヨーロッパ中を沸かせた後、WW1開始後は活躍の舞台をアメリカに移しアメリカでも人気を博します。

(これはロシア・バレエ団の代表的なダンサー、アンナ・パブロワが出演した無声映画『ポルティシの唖娘』の映像だと思います。)

ロシア革命後も、パリに本拠地を移し欧州での公演活動を継続しますが、1929年に中心人物であったディアギレフを失うとロシア・バレエ団は空中分解してしまいました。

散り散りばらばらになったロシア・バレエ団の元メンバーを中心に、当時かなり衰退してしまっていた伝統的なバレエ団の再興がヨーロッパで試みられることになったのです。(パリ・オペラ座・バレエ団もその中の一つです)

初のバレエ出身映画スターはドイツから

1929年、初めてのバレエ出身の映画スターがワイマール時代のドイツに誕生します。リリアン・ハーヴェイです。

彼女がバレエを習っていたのは高校生の時。まさにロシア・バレエ団がヨーロッパで人気絶頂の中、ベルリン国立歌劇場という由緒ある劇場に付属していたバレエ学校でバレエを習っていました。

とはいえ彼女は高校卒業後、バレエではなくショービジネスの道へと進むことになります。なのでバレエを習っていたのはそんなに長い間ではなかったのではと思います。

0:42あたりがわかりやすい

そんなリリアン・ハーヴェイの当時のミュージカル映画の映像を見るとしっかりとトゥーシューズを履いてます。

この作品に限らず『白鳥の舞』(1935)や『ワルツへの招待』(1936)、『舞姫記』(1937)など複数の映画で彼女はバレエを披露していたようです。
(もちろん『会議は踊る』(1931)のようなバレエを披露しない映画も多数出演しています)

つまり、初のバレエ出身の映画スターはトゥーシューズを脱がないタイプのスターだったのです。

長く続いたタップの時代

一方、ミュージカル映画の本場であるハリウッドで人気だったのは、トゥーシューズではなくタップシューズでした。とにもかくにもこの時代1930年代から1940年代にかけてのハリウッド・ミュージカルはどこ見てもタップダンス一色だったのです。

(これはミュージカル映画史に残る至高のタップダンスシーン。エリノア・パウエルとフレッド・アステアというタップダンスの名手が踊る)

たとえば、『踊らん哉』という1937年に流行ったミュージカル映画。主演をつとめる大スターフレッド・アステアがまさしく”人気バレエダンサー”という役なのですが、なんと一切トゥーシューズを履くことはありません。

バレエダンサーの役なのに、実際に映画の中で踊るのはタップダンスだったのです。(添え物的にバレエダンサーは出てくるんですけどね)

バレエ出身ハリウッドスターの初登場

そんなハリウッドですが、1938年ようやくバレエ出身の映画スターが誕生します。ヴェラ・ゾリナです。

彼女はもともとバレエ・リュス・ド・モンテカルロというバレエ団のバレリーナでした。

バレエ・リュス・ド・モンテカルロというのは、ロシア・バレエ団の空中分解後、ロシア・バレエ団を復活させようという様々な動きの中で一定の成果を上げたバレエ団の中の一つです。いわばロシア・バレエ団の後継団体みたいなものです。(ヴェラ・ゾリナはその時の芸名です。だからロシアっぽい名前になっているのです)

そんな彼女が主演をつとめた『オン・ユア・トウズ』というバレエ公演の演技が大変評判を呼び、その評判が海を越えてハリウッドの大映画会社MGMの重役の耳まで届き、海を越えてスカウトされることになりした。彼女はスカウトを受け入れMGMと7年契約を結びます。

こうして、彼女はバレリーナをやめて、ハリウッドスターへと転身したのでした。

1:56あたり

こちらは『ゴールドウィン・フォリーズ』(1938)という作品のヴェラ・ゾリナの出演シーンです。ご覧の通りトゥーシューズを履いてます。

初のバレエ出身のハリウッドスターもトゥーシューズを脱がないタイプのスターでした。

突如として巻き起こったバレエブーム

これは、『ホワイトクリスマス』という1954年にヒットしたミュージカル映画の中で歌われる”コレオグラフィー”という歌の歌詞です。

なんとこの曲、「今はタップを忘れてバレエばかり」「それでもバレエが流行」と、昔はタップダンスがあんなに流行ってたのに今やダンスはバレエばかりじゃないか!という歌詞なのです。

このように突如として1950年代ハリウッドで、バレエブームが巻き起こります。それはミュージカル映画の歌の歌詞になるほどでした。

なぜあんなにタップダンス一色だったハリウッドで突如としてバレエが流行したのでしょうか。それには理由が3つありました。

①アメリカで心理学が大流行した

その一つに挙げられるのがアメリカでの心理学の大流行です。特に当時のアメリカで流行っていたのはフロイトの心理学でした。

フロイトの心理学は、人間の深層の心理的メカニズムを解明しようとするものでした。彼の理論の中心には「無意識」という概念があり、我々が日常的に自覚している意識の下に、多くの欲望抑圧されて存在するとされます。

特に無意識の欲望が象徴的に表れる場とされたのが「」でした。夢の内容を解釈することで、個人の深層の心理や抑圧された欲望を理解する手がかりを得ることができると彼は提唱したのです。

フロイトの心理学は当時の絵画や映画など様々な分野に影響を及ぼします。また、普通の人々もどこかで仕入れた知識で夢占いのようなことをしてみたり、誰もが目に入るものを片っ端からフロイト心理学的に解釈しようとしはじめたのでした

このような時代では、映画やミュージカルの世界もフロイト心理学を意識せずに映画を作ることは難しくなります。

たとえば、サスペンス映画で有名なヒッチコックという映画監督も、映画の中にダリという画家を起用し豪華な夢のシーンを差し込みました。

とはいえ、思っていることを歌詞として歌うミュージカルはこの大流行中のフロイト心理学と相性が良くありません。うまく夢のシーンが作れないのです。そんなとき、重宝されたのが歌も台詞も使わずに全てを踊りで表現することができる”バレエ”だったのです。

1943年、”夢のバレエと呼ばれる登場人物の夢をバレエで表現した大規模なシーンを取り込んだミュージカル『オクラホマ!』がブロードウェイで本当に規格外の大ヒットを飛ばします。これをきっかけにブロードウェイでバレエブームが巻き起こったのでした。

とはいえ、ハリウッドでは、「台詞も歌もないバレエシーンをじっくり見るのは舞台ではともかく映画館では無理だろう」というのが定説で、バレエブームはすぐには起きませんでした。

②『赤い靴』というバレエ映画が大流行した

そんなハリウッドの定説を覆す映画がイギリスで誕生します。『赤い靴』(1948)です。

この映画は、本物のバレリーナであるモイラ・シアラーを起用して製作された本格的なバレエ映画であったのにも関わらず、アメリカでも大ヒットを飛ばしました。

この映画がきっかけで、あれ?もしかしてってバレエってドル箱なのかも?とハリウッドの映画会社の重役たちが考えを改め出したのです。

③ジーン・ケリーという大スターが存在した

『赤い靴』(1948)が流行していた当時、すでに『カバーガール』や『錨を上げて』で大スターとなっていたMGMの大スタージーン・ケリー

彼はもともとちょっとだけバレエにあこがれを抱いていた人物でした。

というのも1933年頃、バレエ・リュス・ド・モンテカルロ(ロシア・バレエ団の後継団体)がアメリカ公演をした際に、なんとジーン・ケリーはオーディションを申し込んでいるのです。*

しかも、彼自身ちゃんとバレエを学んだ事がなかったのにもかかわらず才能が認められ、彼はバレエ団のアンサンブルに加わってバレエを学ぶことを許されているのです。しかし、当時の財政状況もあり熟考の末、ジーン・ケリーは断ることにしたのでした。

こうして、ミュージカル映画俳優の道を選び、流行りのタップダンスをしていたジーン・ケリーだったのですが、

『赤い靴』がヒットしているのを見て、いてもたてもいられなくなります。本格的なバレエシーンあるミュージカル映画を作りたくなってしまったのです。

レスリー・キャロンとシド・チャリシーの全盛期

以上、3つの条件が見事に揃いおよそ1950年からバレエブームがハリウッドで巻き起こります。

そんな中で大活躍したバレエ出身のハリウッドスターがレスリー・キャロンシド・チャリシーです。たぶん知名度もこれまで出てきた映画女優とは段違いだと思います。

レスリー・キャロンは、パリ・オペラ座バレエ団に所属していたローラン・プティという振付師のもとでバレエダンサーをしていました。そこをとにかく本格的なバレエシーンを作りたくて良いバレリーナがいないかヨーロッパ中を探し回っていた(誇張あり)ジーン・ケリーにスカウトされます。

スカウトされると早速、『巴里のアメリカ人』(1951)でジーン・ケリーの相手役として出演。ラストの17分にも及ぶ(もちろん歌も台詞もありません)見事な”夢のバレエ”シーンは大変高く評価され、その年のアカデミー作品賞を受賞しました。
(フランス訛りの英語が人気となり、結構ミュージカル映画以外にも出てたそうです。)

当然、トゥーシューズを履いてますね。

シド・チャリシーは、もともとバレエ・リュス・ド・モンテカルロ(ロシア・バレエ団の後継団体)のバレリーナをしていました。しかし、結婚や戦争の影響もありバレリーナを引退します。しばらくしてからMGMと契約することになりミュージカル映画に少しずつ出演するようになりましたがヒット作に恵まれませんでした。

が、1952年ジーン・ケリー主演の『雨に唄えば』(1952)の”夢のバレエ”シーンに出演することで、一躍大スターになります。

『雨に唄えば』ではつま先立ちしてないので、トゥーシューズは履いてませんが、他の映画では履いています。

と言おうとして、色んな全盛期の映画をあさってみたんですけど、どうやらシド・チャリシーはつま先立ちをしないようです。
(これはこの記事を書いてみて初めての気づきです。やはり、バレリーナを引退してからのブランクがあったから?)

と思ったら、まだ無名時代の映画にトゥーシューズを履いているシド・チャリシーの姿がありました。1945年の『ジーグフェルド・フォーリーズ』という映画で役名のないの端役のダンサーを演じたときの画像です。

映画開始から0:49くらい

フレッド・アステアの復活とバレエブームの裏の側面

バレエが大ブームを巻き起こしている1950年代初頭は、かつてタップダンスで一世を風靡したフレッド・アステアにとっては冬の時代でした。

そんなフレッド・アステアが急に大復活を遂げます。それはシド・チャリシーと共演した『バンド・ワゴン』(1953)でのことでした。

この映画でフレッド・アステアが演じるのは時代遅れの大スター、トニー・ハンターという人物。トニーは再起をかけて新しい舞台への出演を決めます。その舞台はバレエダンサー(シド・チャリシー)を起用した小難しい劇でした。結局、この劇は大失敗し、フレッド・アステアを中心に昔ながらの楽しいミュージカルを作ることで大成功するという内容です。

この”ザッツ・エンターテインメント”という曲に象徴されるように、この映画は、「小難しいヨーロッパ的なバレエとかより、結局はアメリカ的なザ・エンターテインメントみたいなミュージカルが最高だよね!!」ということが言いたい作品なのです。

(一方で、後半に存在する”夢のバレエ”のシーンは素晴らしい出来でした)

一回は戦争でボロボロになったフランスの芸術が再び盛り上がって来ると、このようなヨーロッパ的なエンターテインメントを下げてアメリカ的なエンターテインメントを上げる作品が多くなってきます。このような作品ではしれっとバレエは”下げられる側”のポジションを担わされていたのです。バレエブームと一口に言ってもこのような側面もあったのです。

例えば、同じくフレッド・アステアとシド・チャリシーが共演した『絹の靴下』も似たような作品です。ソ連のバレリーナがフレッド・アステアと触れ合うことで”資本主義国家であるアメリカ的な娯楽”の甘い味を知っていくというストーリーで、こちらもバレエは”下げられる側”のポジションを担っています。

オードリー・ヘップバーンの登場

これまで何人ものバレエからショービジネスの世界に転身したハリウッド女優を見てきましたが、全員映画界に転身した後もトゥーシューズを履いてバレエを踊っていましたが、ここにきて初めてバレエ出身でありながら、バレエを踊らずハリウッドスターになる女優が登場します

みなさんもご存じの通り、オードリー・ヘップバーンです。(ここまで出てきたスターの中でも知名度はナンバーワンなのではないでしょうか)

オードリー・ヘップバーンは幼いころからバレエを始め、戦後もロンドンのバレエ学校に通いバレリーナを目指していました。が、身長が高すぎたためバレリーナになる夢をあきらめたと一般的には言われています。(調べてみたんですけど、公表値だとシド・チャリシーより低いしKAZUHAと一緒だし、よくわからないエピソードではあります)

イギリスで映画に出ていたころは、下の画像のようにトゥーシューズを履いてバレエを踊るような役を演じていました。

『若妻物語』という1951年のイギリス映画のオードリー・ヘップバーン

『バンド・ワゴン』(1953)が公開された年、オードリー・ヘップバーンはアメリカに渡り、『ローマの休日』で鮮烈なハリウッドデビューを遂げます。ご存じの通り『ローマの休日』にバレエシーンはありません。そして、『ローマの休日』以降の作品でもオードリー・ヘップバーンはバレエを披露することはありませんでした。

まさしくオードリー・ヘップバーンは、ヨーロッパにトゥーシューズを置いてアメリカに渡り、ショービジネスの世界へ華麗なる転身を遂げたといえるでしょう。

そんなオードリー・ヘップバーンの出演したミュージカル映画『パリの恋人』(1957)を紹介して終わりにしたいと思います。息が切れました。

この『パリの恋人』という映画は、フレッド・アステアとオードリー・ヘップバーンが所属する映画会社(MGMとパラマウント)を越えて共演を果たした作品になります。

オードリー・ヘップバーンが演じるのは、フランス哲学に傾倒したダサい文学少女。フレッド・アステアが彼女を半ば強引にフランスに連れていきパリのファッションショーでデビューさせるというストーリーでした。

見所はなんといってもオードリー・ヘップバーンのファッションで、映画全体を通してビジュアルで楽しませてくれるようなタイプの作品です。ダンスもバレエの経験を生かした優雅なダンスを見せてくれて非常に素晴らしい出来となっています。是非見てみてください。

参考文献
*幻冬舎MC,元来渉『踊る大ハリウッド ケリー、アステアから考えるミュージカル映画の深化』,p26
平凡社,重木昭信『ミュージカル映画事典』(ほかにバレエ出身のミュージカル映画スターがいないか、ミュージカル映画事典で立項されている199名の人物については全て調べました【参考】とはいえ、この事典、オードリー・ヘップバーンがそもそも立項されてなかったりしたのでちょっとそこは困りましたが)
青土社,日比野啓『アメリカン・ミュージカルとその時代』(『オクラホマ』のバレエシーンとフロイトのくだりはこの本からの受け売り)
IMDbもたくさん参考にしました。
トゥーシューズが何かついてはこのウェブサイトを参考にしてます。
あと、映画のあらすじまとめるのとかはChatGPTに助けてもらいました。

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