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なんてったって田村麻呂

烏丸五条下ル西側、地下鉄五条駅の何番出口だったか忘れましたが出口から地上へ出ると目の前は烏丸通り、車がひっきりなしに走るメインストリート沿いの歩道を左か右かどっちだったかへ曲がると西へ入る路地があり、興味本位で入ってみると、少し歩けば思いのほか、烏丸通りの喧騒が遠ざかり、歓声はなく、閑静が完成する。一本目の縦の筋を左折つまり南下すると右手に小さなお社が見えてきます。それはそれは小さなお社です。気をつけていなければ素通りしてしまうことは間違いありません、事実、これまでに私は幾度となく素通りしているのではないかと思います。

神社は小さければ取るに足らないというものではありません。お社の大小に拘らず、ご利益は同じだけ在るはずで、仮にそうだとするならば、小さな神社のほうがご利益密度は高いわけであり、それはつまり、同じ9勝でも小川泰弘のそれと奥川恭伸のそれでは「よくやった!」という感じに雲泥の差があるのと似ているような気がします。

その神社の歴史は797年、桓武天皇の時代に遡ります。鳴くようぐいす平安京の3年後です。高卒2年目の奥川に例えた5行前の私に喝を入れてやりたくなります。桓武天皇より蝦夷平定のため、征夷大将軍を拝命した坂上田村麻呂は、信州の諏訪大明神を信仰していました。坂上田村麻呂ですよ。社会の授業で習って以来、とんと話題になることのなかったランキングでスリランカの首都スリジャヤワルダナプラコッテに次ぐ2位が坂上田村麻呂です。かような歴史上の人物がさらっと出てくるあたりに恐ろしさを感じます。同じ坂上でも忍とは大違い、だってこっちは田村麻呂。あっちは一文字こっちは四文字。その田村麻呂が諏訪大明神を信仰していたおかげで戦果を挙げ、平安京に凱旋し、御礼のために信州より諏訪大明神の分霊を勧請し祀ったのがこの神社の始まりだといいます。

時代を経るごとに荒廃したといいますから、昔っからこんなに小さかったわけではないらしいです。田村麻呂ならきっとどでかい社殿を拵えたんではないかしら。荒廃するたび、源義経、足利義満、徳川幕府らによって復興された、とあるんですが、素朴な疑問として足利義満・徳川幕府のラインの先頭に「源義経」がいるのってなんだか不思議。時は過ぎ、禁門の変の兵火では社殿ことごとく焼失したのですが、孝明天皇が再建のために金150両と菊の紋入りの提灯一対を下賜され、1866年に再建、今に至っているということです。

尚徳諏訪神社という神社です。手水舎の水で両手を清め、そういえば最近は同じことを消毒液でよくやるなーと思いながら、社殿前にあるガラガラを目前にし、「コロナがひどかった時はこのガラガラも片付けてる神社が多かったものだね〜、この神社はどうだったのかしらね〜」などと感慨深く、誰もいない神社で鈴の音を大きめに鳴らし、しばしの間、神様とお話したのでありました。

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