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上州吾妻伊与久一族に伝わる忍者(密者)伝承

上州古士 伊与久(伊能·五十久·伊與久·伊谷/読みはすべてイヨク)家は、平安末期より上州に蟠踞し、代々弓馬の道を生業としてまいりました。
家伝では秩父平氏畠山氏庶流であるとか、葛西氏末である等諸説有りますが、鎌倉前期には既に上野国に土着していたのは確かなようです。その後、渡良瀬川流域の佐波郡伊与久村を新田義貞公の弟の君、脇屋義助公の裔として知行し、新田諸家と共に鎌倉攻めに参戦します。
本宗·伊与久弾正家は新田氏後裔由良氏に仕え戦国時代を迎え、徳川初期には帰農。後に再び苗字帯刀を許されます。この家は明治まで続き、厩橋藩の勘定奉行や寺社奉行職を歴任しました。
そこから分れた伊与久采女、左京らが甲陽先方衆であった真田氏の要請に呼応する形で吾妻に入植し、出浦昌相や祢津潜龍斎などの下編成され吾妻衆の一翼を担い、後に真田氏の版図の拡大と共に名胡桃、沼田、利根、松井田、安中、榛東などの地へ派遣されて行きます。この吾妻の流れも江戸初期の岩櫃廃城とともに帰農し、今に至りました。私の家は伝承によりますと、この采女家を本家とした枝家のようで、一族同士のネットワークは強く、徳川幕藩体制下に於いても藩を越えて独自の情報のやり取りをしていたと聞いております。
群馬県立文書館に采女家から寄託されている伊能(いよく)氏文書を見ますと、出浦対馬守代参云々と見えます。真田家の忍びの者統括と言われる岩櫃城代出浦氏の信任も篤く、廃城後も吾妻衆の中核的な家の一つとして栄えたと言います。

私は昭和48年に千葉県で生まれました。
明治時代に群馬から出てきた曾祖父の下、武芸十八般を仕込まれた祖母と、その師匠筋の修験者に、子供のころから一風変わった教育を受け、修業の内容などについて口外を固く禁じられました。
具体的にどのようなことを学んだのか、一例を申しますと、子供のころから「菊(規矩)の行」と言って頭に水の入った器や竹筒を載せながら、立ったり座ったり寝転んだり、武器を使ったり舞を踊ったりといった稽古をさせられます。これは身に撚りをかけると言って、身体の真ん中の軸の感覚を作るための修行です。はじめは水ですが、徐々にそれがぬるま湯になり、最後は熱々のお茶になります。

これを基本に、正座でなく地べたでの立ち居振る舞いを中心とした古風な身体使いを学びました。老人達曰くこれを「浮御堂」と言い一騎当千の兵の身遣いなのだとか。 
そこから始まって躰転、転座、丸身、猿渡、当身、物真似などの基本的躰術、息吹、飛礫(つぶて)、剣、杖、なぎなた、鎌、手裏剣、紐、弓、仕物などの武芸、修験、望気、苦行、埋伏、潜行などの密の業に進みます。
老人たちはこれらを総称して「甲陽兵法」「甲陽の御流」を鍛練するのだと言っておりました。当の本人はと言いますと、子供心に「コウヨウとは紅葉やカエデの葉っぱのことだろう」と思っていたくらいですので、全く熱心ではなく、辛い稽古から逃げてばかり。身体が弱かったのもあり、何度もやめてしまいたいと思いました。

甲陽兵法というのは、おそらく甲斐の国主·武田信玄公を源と発する軍学、ひいては忍術の流派であると思われます。
祖母によると「御館様(信玄公)の命令で、偉いお侍が評定をして作ったのが密(みつ)という集団で、それが真田様に伝わった」と言うことでした。
有名な甲陽軍鑑には、甲軍の謀諜組織として発音が同じで、表記が「三ツ者」という集団について詳しく書かれていますが、其が私ども真田のそれなのかは史料がないので何とも言えません。
しかし、信州松代真田家や紀州徳川家に仕えた忍者たちがやはり甲陽流を名乗っており、その本源は根津神平(数馬)といって祢津村の巫女とも関係の有ることを考えますと、すべてがこの甲斐~信濃~上州の一帯にまつわる話と言うことになってきます。歴史の流れともおおむね符合するので、我が家の伝承も何かしらの真実を物語っているのではないか、と今では思っています。

祖母は文武両道、歌舞音曲に通じ、度胸も腕っぷしも強く、とにかく何でもできる人でした。思い出すのは、異常に身が軽い祖母に「おばあちゃんは忍者なんじゃないの?」と尋ねたとき、烈火のごとく怒って「うちは忍者なんてもんじゃねえ。れっきとした真田様の郷士だぞ。郷士と言ったらお侍だぞ。」と言っておりました。
しかし、祖母や法印の教える技や知識は、所謂「武士」のものというよりは所謂「忍びの者」に相応しいような内容が多かったように思います。
私は悩んでしまいましたが、そんなものか・・・くらいに思って、深く考えずにおりました。
しかし、こうとも言っておりました。
『「真田十勇士」ってのはよう、ありゃあ面白おかしい作り話だけどもよう、あんな一騎当千の豪傑が、真田様の軍配を慕ってついていったのは本当の話なんだよう。家んちもそういった家柄なんだから、兄ちゃんも兵法に励まなくてはなんねえよう』と。僕はこの話が心に引っ掛かり続けておりました。

ここで兵法の内容について、もう少し詳しくお話いたします。
祖母の得意な武器は、手裏剣でした。これで若いころは兄弟ケンカをしてお姉さんの手を貫いたことがあると言ってカラカラと笑っていたのを思い出します。これは今テレビなどで見られるような星形のものではなく、鋭い針や簪のようなものです。
後日割田下総様の末裔の割田喜一郎さんにその話をしましたところ、なんとほとんど同じものを子供のころ稽古したということ、ああ、あれはいい加減な話ではないのだ!と、踊りだしたくなるような喜びを感じました。
また興味深いのは、代々女性にも兵法を伝えたという伝承があることです。
その際は、舞踊のたおやかな動きの中に武の精髄を隠したのだそうで、我が家ではこれを手弱女振りと呼びました。祖母はこの優雅な動きで大の男をポンポン投げていました。確固とした伝承がないので何とも言えませんが、松代甲陽流伝承には忍術の流祖が「聖女」という女性であると銘記されていることもあり、ここからくノ一や歩き巫女を思い出してしまうのは私だけではないと思います。

話を戻して我が家の兵法の話ですが、先ほどお見せしたような、特殊な躰捌きで刀を避けたり、手足に頼らずに虎口を脱するための躰転・転座と呼ばれる躰術等が一通り習得されると、「猿渡行」という山中や街中の行脚に駆り出されます。
これは長いときは十日間、短いときは一日を費やして、ある時は雲水や行者の出で立ちで、ある時は背広や学生服で、それまで学んだ躰術をどの様に活用するのかを実地に訓練します。その時に断食や無言行、瀧行、窟行、遁法、足波の法、潜入、記録法など密の業のノウハウを身につけます。
私は学校の休みなどを利用して、件の法印に帯同されて主に上甲信地方~東北、関西の修験道場を巡り歩きました。この法印は、祖母の師匠筋にあたる行者の縁者だそうで、密の者の連絡や取りまとめをしている家柄のようでした。
今思えば、法印さんにつれ回された土地土地は、必ず武田や真田の足跡が刻まれた「因縁の地」だったようです。それにまつわる秘話奇談も色々と聞かされました。
このような一切の典据になる資料は無いのかと言いますと、恥ずかしながら曾祖父が様々な理由から、資料類一切を処分·売却したりした事から我が家では数点のものしか残らず、晩年は相当後悔したようです。しかし祖母が『本家に行けば秘伝書があるだよ!』と言っていたのを思いだし、後年本家を訪れ史料の閲覧を許されました。するとそこには伊藤流という兵法書と共に「兵法虎之巻」一巻が伝承されているのを発見しました。これは山伏などの間に伝わった呪術的兵法の秘伝書で、一説によれば忍者と関係が深いと言います。

今、私は先祖の伝えてきた兵法・躰術の伝承を見直し、現代を生きる生活者のための何か軸になるものを提供できないかと模索しております。
礼儀作法や護身術、歴史への姿勢など、その技と心が、戦国時代の混乱とその後の圧政を生き抜いてきた知恵と精神の教えであり、武田家の兵法と、真田の小兵を以て大軍を敵となして尚凛とする精神を受け継いだ素晴らしいものだと感じております。

昨今プロのボクサーや実業団柔道、学生相撲などの格闘技や、ダンサーやアスリートに、この技の真価が認められつつあります。東京をはじめ幾つかの地域で真田氏由来の技を研鑽する輪が広がりつつあります。

また、これからの時代、子供たちが生き抜く力を高めてゆけるようにするために、三年ほど前から山梨のオルタナティブスクールの体育科目として採用されたり、各地の教育関連団体より「ちびっこ忍者道場」のご依頼を頂くようになりました。
凄惨な時代を潜り抜けてきたサバイバルの為の「兵法」が、新たな時代に「平法」と生まれ変わって行くことは、私どもにとっても非常に意義を感じております。
これからも温故知新の言葉に習い、武田ー真田と継承された不屈のスピリットを、現代によみがえらせて参りたいと奮闘しているところであります。

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