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街の魅力を“人”で語ることの違和感

街の魅力を語るとき,よくあがってくるワードに“人”がある.

確かに間違ってはいないのかもしれない.がそこには何か視点が足りていない気がして,違和感を感じてしまうときがある.こんな面白いヒトがいて,こんな面白いコトが起こっている.きっとそうなのだろうけれど、それはそのヒトの魅力であって、(たとえ意図的であったとしても)いまたまたまその街にいるだけで、きっとそのヒトは他の街に行っても魅力的なヒトで,魅力的なコトをするヒトになるのだろう.もちろんそれが街も魅力的になるかもしれない.そうなのだけど、なぜだかどうしてもそこに“他力本願”というか,“逃げ”の姿勢を感じてしまう.

地域活性,地方創生が叫ばれる世の中で,どこの街にも魅力的なヒトが集まり,魅力的なコトが起きている.ように見聞きする機会が増えた.そう発信する側も増えているし,そう発信される側も増えている.でもヒトの寿命なんてたかが数十年単位で知れてるし,場所も心もすぐに移り変わる流動的な存在である.このヒトが魅力的だからこの街は魅力的だ.こんなに魅力的なヒトがたくさんいるからこの街は魅力的だ.

そうなのだろうけど,それってきっと他の街もそうだよね.と思ってしまう.

10年後,50年後,100年後,そのヒトはいるの?そのヒトの意志を継いだヒトが,また魅力をつくっていく土壌が築かれて,2代目?3代目?と紡がれていくことで,やっと少しは街としての魅力に近づけるだろうか?それもやはり他力本願に思えてしまうだろうか?

自分でも明確な答えはわからないままであるが,街の魅力をただただ“人”と語ることに違和感がある.

街の魅力ってなんなんでしょうね.

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