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【短編小説】プレリュード

プレリュード
前奏曲 歌劇・組曲などの最初におかれる器楽曲の形式の名。 
まだ、何も始まっていない。

別に何か用があったわけじゃない。
橋本はしもとは自分にそう言い聞かせる。

そこは、自分の実家からそう遠く離れていない場所で、歩いて15分くらいの距離。用がなければ、足を運ばないような場所。

目に入った光景に、橋本は思わず息をのんだ。

今歩いている道路、とはいってもかなり細く、車2台すれ違うのには、片方が止まらなくてはならないが。それを挟んで、住宅が立ち並んでいたはずだが、全て取り壊され、更地さらちと化していた。

要するに、だだっぴろい空き地がずっと広がっている。

奥には、いわゆる青空駐車場のようなものが続いている。だいぶ先まで、建物はない。随分見晴らしが良くなってしまった。

「本当だったんだな。」

思わず口から洩れる言葉。
別に手紙に書かれたことを疑っていたわけじゃない。
ただ、実際にこの目で見るまでは、実感できなかっただけだ。

中学の時の同級生から手紙が届いたのは、もう1年くらい前のこと。
小野おのは、自分の実家が取り壊されることを知らせてきた。
自分たちが遊ぶのにも使っていた小野の実家は、記憶に残っていて、多分小野もそれがあったから、手紙で知らせたんだろうと思った。

小野は、現在の連絡先も手紙に書いていた。
『もし、懐かしく思うなら、連絡ください。』と言葉を添えて。
でも、自分は小野に連絡を取っていない。
懐かしく思わないわけじゃなくて、その逆で。

小野に会ったら、自分の中に封じ込めたこの思いも、あふれ出してしまうと思ったから。

「あの、すみません。」

小野の実家があった空き地を眺めていた橋本に声がかかる。
振り返ると、年配の女性が橋本の視線を受け止めて、ほほ笑んだ。

「なにか、ご用かしら?」
「・・いえ、何でもありません。」

そう答えつつも、橋本は女性の顔をしげしげと眺めてしまう。
その顔が誰かに似ていると思ったのだが、気のせいだろうか。

「あの・・。」
「私は、貴方の顔、見覚えがあるわ。どなただったかしら?」

そう尋ねると、女性は顔に手を当て、首を傾げた。

「自分は、橋本と言います。」
「はしもと、橋本・・ひょっとして、娘のお友達かしら。」
「娘?」
紗英さえの。」

そう言って、女性は橋本の顔を見つめる。その女性の言葉に、橋本は相手に分からないように軽くこぶしを握った。

「小野・・紗英さんのお母さんですか?」
「そうそう。やっぱり、紗英のお友達よね?橋本くん。」
「よく、分かりましたね。自分がお・・紗英さんの家に行ったのなんて、もう何十年も前の話なのに。」
「それは・・。」

女性は、橋本の問いに少し言いよどむ。ただ、思い直したように、顔を上げ、口を開いた。

「橋本くん、よかったら家に寄って行かない?」
「え、家って、取り壊されたんですよね?」
「よく知ってるわね。紗英が話したのかしら?確かにそうだけど、裏に引っ越したのよ。」

女性が手で指し示した先に、まだ新しいと思われる新築の家が建っている。
以前の小野の家よりは、一回りほどコンパクトになっていた。
小野からの手紙には、実家が取り壊されたことしか書いていなかった。意図的に、裏に引っ越したことは隠したのかもしれない。小野は天然だったから、単に書き忘れただけかもしれなかったが。

「紗英はいないけど。」
「それは・・別に。」

小野がいないだろうことは分かっていた。就職と同時に実家を出ていることは、共通の友人を通じて知っていた。
だが、分かってはいたのに、少し期待していたのかもしれない。
「いない」という言葉に、僅かに残念だと思う自分もいる。

「もし時間があるなら、どうぞ。お茶菓子もあるわよ。紗英のアルバムは見せてあげられるかも。」
「・・では、お言葉に甘えて。」

別に用事があったわけじゃない自分には、この後の予定もなかった。


小野おのの母親は、橋本に卒業アルバムを含めた、数多くの写真を見せた。どの写真にも、ほほ笑む様子に目を細めた小野が写っていた。彼女の笑い方は、最後に会った時と変わっていない。

見せてもらいながらも、小野本人がこれを知ったら、きっと怒るだろうな、と橋本は思っている。自分が知らなかった幼少時や小学生の時のものまで、見せてもらっているのだから。

「お・・紗英さえさんはお母さん似ですか?」

元々名前で呼んでいないので、小野のことを「紗英」と呼ぶのには慣れない。毎回、言い直すのは少し面倒だが、今話している相手も小野なのだから、名前で呼んだ方が分かりやすいだろう。

母親は、橋本の言葉に首を傾げた。

「最近は、私に似てきたかもね。でも、小さい頃は父親に似てたのよ。」
「自分はお会いしたことがないから、分かりませんけど。」
「そうね。その写真に一緒に写ってるのがそうよ。」

彼女が指さした写真には、小野の父親と、小学生らしき頃の彼女が写っている。見比べると、確かに幼いころは父親に似ていたような節がある。

「一人娘だから、とても可愛がってたけど、娘の晴れ姿は見られなかったわね。」
「・・・。」

しれっと爆弾発言をしたことに気づいているのか、母親は窓際の骨壺が入っていると思われる袋に視線を向けた。その前には位牌いはいもあるから、父親の遺骨が入っていると思われる。小野の父親は既に亡くなっていて、そして、それほど時は経っていないのだろう。

橋本は、自分の心拍数が上がるのを感じた。
自分は小野の家族の深いところに足を踏み入れようとしていないだろうか。
そう思ったら、とても居心地が悪くなってくる。

「あの、自分、もうそろそろ失礼します。」
「あら、もっと長居してくれてていいですよ。」
「いや、あまりいるのも迷惑ですし。それに写真も十分見させていただきましたし。」
「そう?残念だわ。」

母親が本当に残念そうにため息を吐くと同時に、玄関のインターフォンが鳴る音がする。橋本に向かって、ちょっと待ってるように手で示すと、母親は、キッチン脇にあるモニターに向かって、声をかける。

「はい。どちら様ですか?」
『私。紗英だけど。』

橋本は、その声を聞いて、口を覆う。母親は橋本の方を見て、困ったような笑みを浮かべて、それに答える。

「予定より遅かったわね。」
『近くの桜を見てから来たの。玄関開けてくれる?』
「分かったわ。待ってて。」

玄関モニターを切った後、母親は橋本に向かって言った。

「紗英が帰ってきたわ。」
「・・帰ってくることが分かってて、引き留めましたね?」
「ええ、紗英が会いたがるだろうと思ったから。」
「そんなこと、分からないじゃないですか?」

急速に緊張感が高まる。彼女に会うから、会ったからといって、何かが始まるとは限らない。ただ、心の中に湧き上がるのは、不安かそれとも期待か、橋本にはよく分からなくなってくる。どちらにせよ、自分はもう逃げられない。彼女に会うしかない。

「橋本くん。私は紗英からよく貴方の話を聞いてるの。」
「え?」
「心配しなくていいわ。そのまま待っていて。」
「・・・。」

母親は、彼女に似た笑みを浮かべると、部屋を出ていく。この部屋と玄関は隣接しているから、橋本の耳には、玄関を開ける音や、親子のやり取りも全て入ってきた。

「あれ?誰か来てるの?」
「どうして?」
「どう見ても男物の靴だし。」
「貴方も知ってる人よ。たまたま会ったから声をかけたの。」
「ふーん。誰だろ?」

橋本は、自分の胸を押さえながら、会いたいと思っていた人の姿が現れるのを、息をつめて待った。

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