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【短編小説】銀木犀

玄関を出て、新聞を取りにポストへ歩いていくと、僕の鼻先を微かな香りがかすめた。新聞をポストから取り出して、玄関横の2階に届こうかという背丈の木を見つめると、深緑色の葉の付け根辺りに、白い小さな花が鈴なりになっていた。

鼻を近づけると、金木犀きんもくせいに似た、でもそれよりは淡い豊かな香りを感じる。よく見ると、そこかしこに白い花が咲いている。昨日、新聞を取りに出た時は感じなかった。昨日の午後から今日にかけて一斉に咲いたのか、それとも、香りが淡すぎて、単に気づかなかっただけか。後者なんだろうなと思いながら、僕はその木を見上げた。

この木は、銀木犀ぎんもくせいという。

金木犀は知っていると思う。秋になると、あのよく知った香りを、辺りに一斉にただよわせる。橙色の小さな花をつける。あの香りを嗅ぐと、秋が来たなと感じる。小さい頃は、トイレの芳香剤ほうこうざいの匂いを思わせ、あまり好きではなかった。それほどに、香りを強く感じたのだ。

一方、この銀木犀は、金木犀に似た白い、正確に言うと純白というよりは、黄色がかったアイボリー色の花を咲かせる。そして、香りは金木犀に似ているが、より淡く、花に顔を近づけないと香りが分からないことも多い。
そして、その香りを楽しむために、家の玄関脇に植えたというわけだ。

確かに、ここ最近朝や夜は、肌寒い。日中の日差しはそれなりに強いが、風が吹けば、いい心地だ。もう秋だ。

銀木犀の香りを嗅ぐと、決まって脳裏に浮かぶ人がいる。僕に銀木犀の存在を教えてくれた人。そして、当時のことを思い返す。

「私、金木犀の香り、好きなんだ。」
「そう?トイレの芳香剤みたいじゃん。」
素直に自分の思ったことを返したら、相手は不服そうに唇を突き出した。

「あれは香りだけ誇張こちょうしてあるんだよ。」
「そうかな?学校の行き帰りとかも、結構強く香るし、何か苦手。」
「・・・そういえば、銀木犀って知ってる?」
「何それ?金木犀の親戚?」

彼女は、自分の言葉にぷっと吹き出した。
「確かに似てるけど。金木犀はオレンジ色の花が咲くけど、銀木犀は同じような白い花が咲くの。で、香りは銀木犀のほうが、金木犀より断然弱い。」
「へー。」
「私、近くで銀木犀があるところを知ってるの。一緒に見に行こう?」

そう言って、彼女は学校帰りに僕のことを、ある一軒の家の前まで連れて行った。
「ここ?」
「そう。」
彼女はそう言って、勝手に門の中に入っていってしまう。

「他人の家の庭に勝手に入っていっちゃだめだよ。」
「他人じゃないよ。私の家。」
そう彼女に返されて、僕は門にある表札を見つめた。確かに彼女と同じ苗字が書かれてある。思っていた以上に大きな家だった。
彼女に引きずられるように玄関前まで連れていかれ、玄関横の木の前で立ち止まった。

深緑色の葉を茂らせた間から、白い花が鈴なりになって覗いていた。
「これが銀木犀。ほら、香り嗅いでみて。」
彼女がさあさあと、僕の背中を押した。
今、木の前に立っている分には、全く香りを感じない。金木犀だったら、この時点で強く香るはずだ。

白い花に自分の顔を近づける。
鼻に金木犀に似た、でも非なる淡い豊かな香りが届いた。
いい香りだ。
僕は素直にそう思った。

「いい香りでしょ?」
彼女が僕の隣に立って、顔を近づけてくる。彼女の肩が自分のものと当たった。
「姫川。」
「何?」
「姫川からも同じいい匂いがする。何かつけてる?」
そう言って、彼女の顔を見ると、彼女はなぜか顔を赤くさせて、そっぽを向いた。

思えば、あれが僕の初恋だったのかもしれないなと思う。
結局、お互いの距離がそれ以上近づくことはなく、卒業と同時に会うことはなくなった。職場が同じになることがなければ、今でも会わずじまいだったかもしれない。

銀木犀の香りを楽しんでいると、玄関の扉が開いて、僕の妻となった彼女が出てきて、こちらを見て笑みを浮かべた。

「今年も咲いたのね。銀木犀。」
「いい香りがするだろ?」
「ええ。玄関脇に植えて正解だったわ。朝食できてるけど。」
「じゃあ、行こう。」

僕らは家に入る前に、銀木犀の香りを含んだ、その場のひんやりとした空気を思いっきり吸い込んだ。どことなく甘く感じた。

銀木犀(ぎんもくせい)
花言葉:初恋、あなたの気を引く、高潔、謙虚、謙遜、真実
10月25日、11月1日誕生花

自宅の庭でも銀木犀が咲きました。今年は思った以上に鈴なりです。気候があっているのでしょうか?もう秋です。

銀木犀の香りのハンドクリームが、今年発売されているらしい。香りが気になる方はチェックしてみてはいかがでしょうか。ハンドクリームだったら、男女問わず使えると思いますし。プレゼントにもいいかもしれません。

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