【短編小説】結婚しなくていいと思ってるのは、貴方だけかもしれません。
彼と一緒に住み始めた当初、私達には結婚願望というものがなかった。
共に仕事が順調で、大きな仕事を任せられるようになっていた。結婚するとなると、その準備に時間もお金も取られる。それに子どもを持つことだって考えなくてはならない。
不安なことは、たくさんあるのに、それ以上のメリットってあるんだろうか。
今が楽しければ、それでいいじゃない。
そんな気持ちで、私達はもう5年も付き合っている。
定期的に会っている大学院時代の先輩から、結婚することを聞かされたのは、やはりそんな集まりが終わりを迎えようとする時だった。
「驚いたか?」
「・・そんなそぶり、なかったですよね?」
「彼女が俺より年上でさ。早く子どもが欲しいって、急かされた。」
「・・まさか、授かり婚じゃないですよね?」
さっきから、質問が多くなるのは、自分も結婚を考えない歳ではないからだ。同棲している彼女とは、既に5年も付き合っている。付き合い始めた当初はもちろん、同棲を始めた時にも、結婚の話は出なかった。
お互い仕事を始めてそう経っていなかったし、自分たちのことで精一杯といえば、精一杯な時期だった。そのまま話に出ないまま、ずるずるときているが、もう30代が目の前に迫っている。頭の中には『結婚』の2文字がチラつくが、踏ん切りもつかず、話にも出せていない。
「違うけど。出産するのは30歳代前半がタイムリミットなんだってさ。それ以降は子どもが出来にくくなるって。1人ならもう少し様子見しても何とかなるけど、2人とか考えるともう、ちょっと待てないかなと。」
「それは・・松崎さんが調べたんですか?」
「いや、ほとんど彼女の受け売り。俺は漠然といつかは結婚して、子どもが欲しいなと思ってただけ。」
「ですよね。」
手で抱えた湯呑みから熱いお茶を飲む。先ほどまでは酒を飲んでいたが、もうお開きにしようと話に出ていたので、テーブルには、食べ終わったアイスの器と、この湯呑みくらいしか残ってない。
料理の皿や空いたグラスは、店員が手際よく片付けていった。週中日の夜だから、それほど客は多くないような気がする。どこかで騒ぐ声も湧かない。
「井原も結婚、考える?」
「・・まぁ。考えなくもないですけど。」
「彼女とそういう話しないの?」
「このところはあんまり。」
先輩は、自分の彼女である梨々香と顔見知りだ。だから、自分達がそれなりの期間付き合ってることも、既に同棲してることも知ってる。
「俺は、彼女が言うことももっともだと思ったから、結婚することにしたけど、井原もずっと彼女と付き合ってくなら、話し合っておいた方がいいかもしれんよ。」
「・・同棲始めた時は、結婚はまだいいかって話はしました。一応、お互いの家族にも同棲はする旨は話しましたけど。結婚するつもりじゃなかったから、顔合わせみたいなこともしたことないし。」
「でも、それからもう数年経ってんだろ?」
「経ってますね。」
「時間がたつと、気持ちって変わるもんだし。」
「それは・・そうかもしれません。」
「別に結婚はしなくてもいいかもって思うけど、子どものことを考えると早めに話しておいた方がいいかも。今回彼女から話を聞いて、俺はそう思った。まぁ、お互い子どもは欲しくないっていうなら、関係ないけど。」
「ごめんな。踏み込んだ話して。」と言う先輩に、自分は曖昧な笑みで答えた。
同棲している彼から外食に誘われたのは、本当に何ヶ月ぶりだろうか。
家で食べるよりお金もかかるし、料理は嫌いじゃない。毎日仕事で疲れてはいても、のんびりルームウェアに着替えて、2人でその日に会ったことを、あーだこーだと話し合う時間はそれなりに楽しい。だから、私達が外食することは年に数えるくらいしかない。
でも、これはいい機会だと思った。
30歳を目の前にして、私は将来のことについて、彼と話しておくべきだと思ってた。家だと気が緩むのか、スイッチが切り替わるのか、あまり真面目(?)な話をするのは気が引ける。
美味しいものを食べながら、いい気分になったところで、話を切り出そう。
その結果がどうであっても、私はたぶん受け入れられる。
「どうかした?」
彼の言葉に首を傾げると、彼は少しだけ表情を緩めて、「なんか緊張してるみたい。」と言葉を続けた。
私の決意とその先に待ち受ける現実への不安が、表情を強張らせているらしい。私は両手で自分の頬を包んだ。
「彰吾。」
「梨々香。」
私と彼の言葉が重なる。お互い見つめあった後、彼が目で続きを促したので、私はそのまま言葉を続ける。
「まだ、結婚しなくてもいいって思ってる?」
私の言葉に、彼は目を見開いた。その表情には明らかな動揺がある。
やっぱり、ダメかな。と思いながら、私は口を開く。
「同棲始めた時、まだ結婚しなくていいよねって、話したじゃない?」
「うん、話した。」
「あれから、数年経って、私達の付き合いはおかげさまで、続いてるけど。」
「そうだね。」
「ほら、もうすぐ私達も30になるでしょ?付き合い始めてからは5年になるし。」
「・・・そうだね。」
「なんか、考えちゃうんだよね。結婚。」
「・・・。」
彼から答えが返ってこなくなった。視線を伏せて、考え込んでる様子だ。
「結婚するつもりがないなら、別れない?私達。」
彼が視線を上げる。その視線の鋭さにたじろぐ。怒ったのだろうか?
「嫌いになったとかじゃなくて、私も将来のこと考えると、やっぱり結婚したいし。」
「結婚しよう。梨々香。」
「・・へ?」
以前と考えが変わったことを非難されるか、別れを切り出されたことに怒られると思っていた私は、急にプロポーズされて、頭の中が混乱する。
私の表情を見て、彼はじわじわと顔を赤くさせた。そのまま、自分の口を押さえる。
「ごめん。ここで言うつもりじゃなかったんだけど。」
「いや・・え・・うん。」
何と答えていいか分からず、言葉にならない声が出る。
「実は結構前から考えてて。でも、梨々香が結婚しなくてもいいと思ってたら、自分だけ思っててもなって、なかなか言い出せなくて。」
どうやら、自分と同じようなことを、彼も考えていたらしい。
付き合った当初、同棲し始めた時に、お互いが口にした言葉に囚われていたらしい。
「一番決定的だったのは、松崎さんが結婚したことだけど。」
「・・そっか。」
松崎さんは、彼が尊敬している学生の時の先輩で、私も顔を合わせたことがある。その時の彼の様子を見て、淡く嫉妬のような気持ちを覚えたので、よく覚えてる。松崎さん自体は、とてもいい人だった。彼が尊敬するのも頷ける。
「でも、本当に僕でいいの?」
「何言ってるのかな。」
私は彼の言葉にほほ笑む。
「彰吾だから、いいんじゃない。」
「あーっ、やっぱ別の機会にやり直していい?」
「私はどっちでもいいけど。」
「いや、自分で自分が許せないから、やり直そう。ちゃんと準備する。梨々香の心に残るものにする。」
私には、その気持ちで、十分なんだけどな。
そう思いながらも、私は熱くなった自分の頬に、掌を重ねた。
終
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