【短編小説】憧れと、恋愛と
部屋の扉を開くと、こちらに横顔を向けて、机に向かっている妹の美弥の姿があった。奨が入ってきたというのに、こちらには少しも目を向けず、ただ手元の紙の上で手が動いている。
奨は軽く息を吐くと、手元のドアを添えた手の甲で叩く。その音に、美弥はこちらを見て、軽く首を傾げた。
「扉を開ける前に、まずノックじゃないの?」
「ちゃんとした。答えはなかったけど。」
奨の言葉に、美弥は申し訳なさそうな表情に変わった。
「はは、ごめん。気づかなかった。」
「まぁ、いつものことだからいいけど。」
「で、何の用?」
「いや、別に特別な用事はない。」
「だったら、来ないでよ。」
美弥は、奨に向かって、手を振る。まるで自分に纏わりつく羽虫か何かを追い払うかのように。その仕草に、奨が言葉を失っていると、さすがにバツが悪かったのか、床に置かれたクッションを指さした。
その場に素直に腰を下ろす奨を一瞥すると、美弥は手元の紙に視線を戻す。スマホを手に取って眺める奨に対して、「何かあった?」と声がかけられた。
「何も。」
「彼女さんと喧嘩した?」
「・・・。」
「なんか無神経なこと言ったんでしょ。」
「たぶん違う。」
「そう?」
「と思う。」
美弥はククッと笑う。
「早めに謝って、仲直りしておいた方がいいよ。せっかくお兄ちゃんと付き合ってくれてるんだから。」
「・・でも、何が悪くて怒ってるか分からないのに。」
「分からなくても、何かしたから怒ってるんでしょ?なら、謝らないと。」
「やっぱ、俺、恋愛向いてないかも。」
美弥はこちらを振り返った。その表情はとても不満げだ。
「一度も恋愛したことない人に向かって、そんなこと言うな。」
「今、書いてるのは、ラブレターじゃないの?」
「ラブレターじゃない。ファンレター。」
「しかも、実在しないキャラ宛だろ?」
「キャラ言うな。私にとっては大切な人なんだから。」
美弥は、Web小説の登場人物に憧れている。合わせて、その小説を書いた作者にも。彼女の言うファンレターを、それこそ何枚も書いているが、それらを出したことはない。なぜなら、その作者はいわゆる覆面で、ちゃんとした本を出版しているわけでもなく、ファンレターを送る先が分からないから。
手書きじゃなく、メールにして、作者に送り付けることはできるんだろうが、それは恐れ多くてできないのだそうだ。きっと、作者は喜ぶだろうに、と奨なら思うのだが。
「もし、送り先が分かったら、その手紙は相手に送るのか?」
「分からない方がいいかも。だって、分かるようになったってことは、本を出して、他の人にも知られた状態ってことでしょう?なんとなく嫌。」
「今だって、Webで公開してんだから、十分他の人にも知られてんだろう?」
「今くらいで十分。分かる人が分かっていれば、それで十分なんだよ。」
「・・そう、書いた人も思ってればいいけど。」
Webで小説を公開してるってことは、自分の作品を読んでほしいってことで、書籍化の話が来るほど才能があるかはともかく、きっかけがあれば、もちろんその話に飛びつくだろうと思う。少なくとも奨自身がそうだったら、そうする。
ただ、そうやって残る人がごく僅かだってことも知ってる。
その後、コンスタントに作品を書き続けられるのも、質を保ち続けるのにも、努力や才能がいる。そう考えると、今のような状態で、確かなファンに支えられて、大きくバズることもなく、続けていく方が、長く生き残れるのかもしれない。ファンにとってはそれが一番なのかも。
まぁ、自分には、他の人を惹きつけるようなものを作る才能なんてないし、そんな悩みを抱えたことはないんだけど。
「でも、しばらくお休みしちゃうんだよね。その後、どうやって私は生活していけばいいんだろう・・。」
「お前も、受験があるだろう。」
「それを言わないでほしい。聞きたくない。」
美弥は、わざとらしく両耳を手で覆った。奨は、軽く息を吐いて立ち上がると、その手を取り外す。
「受験が終わるころには、きっとまた再開してるよ。それを励みに頑張れば。」
「そうなんだけどぉ。」
「きっと、勉強で大変になるのに合わせて、休んでくれたんだよ。流石に受験勉強中はそう読めないし。そう思ったら、少しは楽になるだろう?」
美弥は、ぴたっと動きを止め、隣に立つ奨をじっと見つめた。
「何?」
「お兄ちゃんって、基本優しいよね。」
「なんだそれ、急に。」
「彼女さんにも同じようにすればいいよ。」
ふふんと、なぜか得意げな顔をする美弥の鼻を軽くつまみ、「そういうのはやめてほしい。」と喚く妹を眺めながら、奨は手元に持っていたスマホで、電話をかける。
もしかしたら、出てくれないかもと思ったが、長いコールの後、留守電になる前に、相手が出た。
「はい。」
声の硬さに怯みそうになる自分を抑えつつ、何とか言葉を口にする。
「今から会えないかな。」
「今から?」
「このところ疲れてるみたいだから、何か甘いものでも食べにいかない?」
疲れている原因が、奨本人にあるのかもしれないが、ここ最近機嫌が悪いのは、それも影響してるのではないかと思ってた。
電話をしてる奨を、口を押さえて美弥が見つめている。何か言いたげだけど、奨はそれを無視した。耳元の相手の反応に全神経を注ぐ。
「甘いもの。」
「そう。食べたいスイーツあれば、奢るよ。」
「行く。」
つられたのは、スイーツなのか、奢るという提案のせいか、とにかく会うことができたのだから、一歩は踏み出せただろう。
待ち合わせ場所を決めて電話を切った奨は、美弥の方に視線を向ける。
美弥は手紙を書き終えて、いつもの箱の中にしまっていた。彼女が言う大切な人宛に書いたファンレターがびっしりと詰まっている。
それだけの思いを相手が知らないなんて、なんて勿体ない。
「どうかした?」
「いや、何も。」
「彼女さんと仲直りできそうで、よかったね。」
「・・それは、ありがとう。」
「待たせたら悪いから、早く支度したら?」
美弥は机から参考書などを取り出し始めた。このまま、勉強を始めるつもりらしい。
「邪魔して、悪かった。」
「・・お兄ちゃんと話すのは楽しいよ。」
そう答えると、薄く微笑んだ美弥は、机の隅に置かれた先ほどの箱に手を添えた。
終
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