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「オッペンハイマー」と『マクベス』−「血」=「赤」、または「妻」をめぐる試論−

ネタバレ有ります

「赤」狩り

 上映時間が「きっかり」3時間を誇る映画「オッペンハイマー」では、今から軽くネタバレするが、ほぼ全編にわたって、通奏低音的に(つまり暗ーく)貫通しているテーマが「赤狩り」である。アメリカ合衆国の「赤狩り」については詳細を省くが、簡単にいうと共産主義(社会主義)の排除、一度でも共産主義と関わった(とされる)人物の追放、である。主人公のJ. ロバート・オッペンハイマーは、戦後この「赤狩り」によってそのキャリアを追われることになる。
 ここでの「赤」は言うまでもなく「共産主義」の事だ。第二次大戦後はまだしも、戦前、戦中においてさえ、共産主義との関わり合いは、アメリカにおいてかなり危険だった。民主主義の国だから。とはいえ、大学の教授たちの組合を設立しようとする事でさえも危なっかしいそんな状況で、物語はどんどん展開していき、そして戦後、ソ連との冷戦へ突入という段になって、オッペンハイマーは過去の「共産主義との関わり合い」が尾を引く。
 激しい追及(裁判みたいな)に四苦八苦する、オッペンハイマーやその周囲の人たち。激しさを増す追求の中で、オッペンハイマーの心中には、「史上最大の兵器」を作り出し、民間人を含む大量殺戮の原因=原子爆弾を作り出したという重い十字架がのしかかってくる。

「オッピー」の妻

 ここで、オッペンハイマー(愛称オッピー)の妻について触れなければらない。オッペンハイマーの妻は、確か生物学者で、彼と出会った時は人妻だったはずだ。彼女は関係が終わりつつある婚姻を破棄し、オッペンハイマーの妻になる(確か彼女は一度も愛称の「オッピー」を口にしなかったはずだ)。彼女は「アルコール依存症」で、前記の執拗な「追及」に、オッペンハイマーに「戦え」と鼓舞する。この追求は、かなり不当なものであり、ネタバレを避けるために最適限しか書かないが、ある人物によって嵌められて、オッペンハイマーは「戦わなくていい戦い」を強いられている。そんな状況下で妻は夫に戦え、と半ばヒステリックにけしかける。

そして真打マクベス(とその妻)登場

 ここでやっと、ウィリアム・シェイクスピアの『マクベス』との類似がやっと指摘できる。これまた煩雑なので詳細はオミットするが、主人公のマクベスは妻に、上司(軍の)や、王の殺害を唆し、野心の少なかったマクベスを最終的に王にしてしまう。そこで有名な件があるのだが、全てを成し終え、罪のない人々を殺めたあと、妻は精神不安定な状態になる。そして言う。「手が血で汚れてしまった」(言いはしなかったかも)。物理的(実際)には汚れていない手を水でゴシゴシ洗うようになる。所謂、「洗浄強迫」と言われる「症状」で、まあ一般的な意味での「洗浄強迫」ではないと思うのだが(人を殺しているので)。それ(洗浄強迫)が、マクベスの妻が目に見えて狂っていく一つの症状だというのが、『マクベス』の鍵となる箇所だと思うし、「精神分析的な読解」の成果だろう。
 この「手の汚れ=血」は、映画「オッペンハイマー」でも、あの有名な、トルーマン大統領とのエピソードでも顔を見せる。トルーマンとのエピソードは、オッペンハイマー自身のウィキペディアにも記載があるから、ぜひ見て欲しいのだが、簡単に言うとオッペンハイマーが会談の席で「私の手は(広島、長崎の大量殺戮によって)血で汚れてしまったと感じるんです」と言い、返す刀トルーマンが「いや、血で汚れているのは私の方だ。だから、君はそんな事言うな」
 面食らうオッペンハイマーを他所に、終いには「あの泣き虫を2度と連れてくるな」とまでトルーマンは言い放つ。
 映画では、「手が血で汚れている」というセリフがあるとはいえ、物理的には汚れていないし、要はレトリックなのだが、「手が血で汚れてますよ」というわかりやすい幻視のシーンや視覚的な示唆はない。「血」の「赤」は出てこない。ただセリフにあるだけで、原爆による死者(丸焦げ)はあのスピーチのシーンで幻覚として映るが。

2つの「血」と「妻」

 『マクベス』の「血」と「オッペンハイマー」の「血」は、言葉の上では類似があるかのように見えるが、実際は「質」が違う。一方は、自分が手にかけた、凶行に及んだ故の「手が血で汚れた」のであり、他方は一般人を多く含む(史上最大の)大量殺戮で「手が血で汚れた」のである。後者の方が捻れている(実際に「血」を目にしたわけではないから)。実際の血と仮想の血。見える血と見えない血。この二つの「血」を結びつけるするのは、2人の、それぞれの「妻」である。

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