敵を知ることと己を知ることの近さと遠さ
1月21日(日)雨
今日は南岸低気圧の影響で大雪になるという予報だったのだが、結局雨になって、それなりに強い雨が降っている。予想よりも気温が高かったということだろう。朝7時20分現在の気温は6.5度。この気温ではなかなか雪にはならない感じだ。昨日は大寒なので、それでこの気温ということは、やはり今年は暖冬だということになる。
「フランクフルト学派」を読もうとしているのだけど自分の中に若干の拒否反応もあって、これは自分の中身を点検しようとする試みに対する免疫反応的な動きである気がする。自分がいろいろな本を読んだり勉強してきたりして、その中には自分で意識的に選びとってきた部分もあるけれども、より多くの部分はその当時の教養基準のようなものの中から無意識に選びとって読んできたものが多いわけで、そうなるとそういう部分を点検するというのは自分の筋肉の一枚一枚を剥がして様子を点検するような、そういう試みになりかねない感じがするからだなと思う。
自分が意識的に保守を選びとったのは90年代後半なので、それまでは普通にマルクス主義的な思考みたいなものも自分の中には入っているし、そのシェーマ(スキーム)が使いやすいこともあってやはりすぐ上部構造と下部構造とかそういう言葉が出てくる。これはフランス革命論をやっていた頃にも思ったけれども、社会認識の図式として近代化論とかに比べて市民革命と社会主義革命の2段階論とかの方が高校時代に学んだということもあってよりわかりやすい感じがしてしまう。わかりやすい方を放棄してわかりにくい方を取るのはやはり基本的に抵抗があるわけで、その辺のところをどう片付けるかというのは大変だなと当時も思った。
そういう意味でやはりマルクスというのは才能のある学者だったと思うのだが、今の左翼の学者と同じで学者であると同時に運動家でもあったというところが問題であり、認識がすぐ実行に結びついているところが危険なわけである。フランクフルト学派もその辺りは同様で、人間としてもともと十分に認識を深めるということ自体が困難、あるいは世界を知ること自体が不可能なのに、認識をすぐ実行に移すというのは危険極まりないわけで、その辺りのところを批判するためにはこれらの議論の成り立ちを理解していかないといけないわけで、そしてそれが自分もまた世界理解として共有している部分がある以上、それを見ていくことは自分を抉ることでもあるということになり、まあ面倒だなと思うわけである。
そしてそれは自分が選びとったつもりの保守主義についてもより根本から見直していかなければいけないということでもあり、まあこちらの方もまた面倒な感じではある。ただ、自分が学んできたことや自分が積み重ねてきたことなど大したことないといえば大したことないわけだから、ただそれを積み重ねるのに40年くらいはかかっているということでもあるのだけど、まあ初心に帰るというのはそういうことかもしれない。
自分が歴史学的な方法論を取るのも自分にとってわかりやすいからということが大きいから、自分は何をわかりやすく感じるのか、自分はなぜそのわかりやすさを好ましいと感じるのか、といったあたりも要検討なのだろう。
わかりやすさを好ましく感じる一つの理由は、思想もシンプルな構造の方が強い、と感じるということがある。マルクス主義もそうだが、キリスト教の原罪=救済論とかもわかりやすいし、仏教における苦集滅道の四諦も構造がはっきりしていることでわかりやすく感じる。そうした理論のシンプルな強さに比べると保守主義は煮え切らないわけで、ただ現在のウォーキズムというの名のラディカリズムを批判するためには保守主義の議論が絶対に必要なことは確かだから、その辺を日本に引きつけながら理論構築していこうと思うのだけど、日本的な思想というものは結局は本当に歴史の中で形成されてきたもので、国学のシンプルさなどはむしろ歴史的に見れば異端という感じはあり、これらを学ぶだけではこれらを護持することは難しく、逆に敵を知る必要があるということを今は思うということはある。
一方で自分の好きなものについても吸収し考えていかないと敵に対する知識ばかりが増えてもそちらに呑まれかねないので、より好きなものについても触れていき知っていかないといけないと思う。
敵を知り、己を知るということが知的生活というある種の戦いの中の静けさ、静けさの中の戦いにおいてもまた、大事なことなんだろうなと改めて思う。
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