他人と年収を比べても意味がない理由?


年収という数字の比較は一部の側面からの比較であり、本質的な比較ではない。本質的な比較をしようとすると、自分と他人の人生の比較になってしまい、それは困難かつ無意味である。

割といろんな本を読んだつもりだったけど
それに気づいたのはここ数年のことかもしれない。


年収は労働市場で得た利益の比較ではない

その年収を稼ぐコストが違う。

これはわりかし早い段階に気づいていたが、
例えば労働時間が違かったりする。
時給換算すると、数字の大小関係は変わるかもしれない。

年収1000万でも超絶ハードな労働をするくらいなら、年収600万で定時に帰れる仕事が良い。みたいな話だ。

労働時間以外にも、様々な労働のコストがある。
通勤による時間的コストとか、ストレスによる健康的なコストとか。

我々が労働市場に身を投じてお金を稼いでいると考えると、
年収というのはただの売り上げでしかない。

本当に見るべき指標は利益であり、それは年収という売り上げから
それを稼ぐのにかかったコストを引かないといけない。

年収という数字だけでは、それを稼ぐためにかかったコストは見えない。


年収は実際に使えるお金の比較ではない

同じ年収でも、手元に残る額は違ったりする。
可処分所得は人それぞれだ。

正社員で700万もらうのと、正社員で400万、副業で300万稼ぐのでは後者の方が手元に残る額が多かったりする。

税に対する知識や各種控除を受けられるかは人によって異なる。即ち手元に残るお金が異なる。

あなたが買ったあの商品を、別の人は経費で割安で購入できるかもしれない。

年収よりも手元に残る額、使えるお金の方が重要な指標ではないだろうか?


年収は価値を生み出す前のお金の比較でしかない

お金は使って初めて価値を引き出せる。持ってるだけではただの紙切れだ。

お金から価値を引き出す能力が低ければ、稼いだ年収の事実上の価値も低くなる。

だから、年収は価値を生み出す前のお金の比較でしかない。

同じ年収、同じ可処分所得だったとしても、

その値段でハンバーガーを10000個調達できる人もいれば、
7000個しか調達できない人もいるだろう。

逆に年収が低くてもハンバーガーを12000個調達できる人もいるかもしれない。

極端な例だが、人それぞお金を使う力という変数は違う。
よって年収の価値が変わってしまう。


お金から価値をどれだけ引き出したかを比較しようとすると、
そのお金でどれだけ価値あることをしたか、幸せになったかという比較になってしまう。
人それぞれ価値観が違うのだからそんなこと比較してもどうしようもない。


まとめ

生きていると、年収を聞かれることがある。
数字であると、どうしても比べたくなってしまうのだけれど
それは一つの側面での比較でしかない。

そしてもっと多面的に比較しようとすると、

手元に残る金額からそれを得るのにかかった費用を差し引いた額(売上-コスト)というのが本当に比較すべきお金であり、

残ったお金の価値も、そのお金をどう活かせるかというのを変数で変わってしまう。

それは単なるお金の大小の比較とは程遠く
年収の比較というのは、見かけ上の数値での比較でしかないというのを実感する。


(おまけ1) 年収はお金持ちの指標ではない

他人より年収が高くても、自分より年収が低い人が親から家を相続していた。みたいな話があれば経済的に豊かなのは自分より年収の低い人だったりする。

それ以外にも、結婚している場合はパートナーの年収により世帯の経済的豊かさは変わる。

年収が同僚より200万年収が高くても、パートナーの年収が200万違えば、世帯で見れば差はない。

年収の比較を経済的豊かさで見ようとすると、その人以外の要因が多くなってしまう。


(おまけ2) 同じ年収でも職業によって稼ぐ難易度は違う

年収を比較するとき、年収が多い方が凄いみたいな話をするのであれば、
それはちょっと違うのかなと思ったりする。

対戦ゲームをやるとき、複数のキャラから使うキャラを選ぶのだけれど、
パワーバランスというのはどうしても違ってきて、扱いやすいキャラ、強いキャラというのはどうしても出てくる。

扱いやすく強いキャラで勝つより、操作が難しい弱いキャラで勝つ方がすごかったりする。


これは職業選択にも言えて、どの仕事を選んでいるかとか、何をして稼いでいるかによってやっぱり違ってくる。

だから年収を上げたい人は、稼ぎやすい分野を選ぶのが合理的な手段だと思うけど、そうやって稼いでいる人は偉いだけであって、凄いとはまた別の話なのかなと思ったり。


という余談。




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