人それぞれツラさは違う

高校生のころツラいことがあった。
でも、誰もそのツラさを理解してはくれなかった。
その程度我慢しろ。周囲の人たちはいった。

自分のツラさを理解してもらいたいとは思わなかった。
私こんなにツラいんです、とアピールすることに意味はないし、
そんな弱い人間になりたくなかった。

でも、理解者がいないのは味方がいないと一緒だった。
いろんな人がいろんな形で敵として現れた。



私は「事象はニュートラル」という言葉が好きだ。
学生時代、問題解決やNLPの本を読んで知ることができた。

物事や事象は中立で、それをどう捉えるかによって意味付けが変わるという話だ。

最近だと円安が問題視されているが
円安という事象はニュートラルで、誰かにとっては問題だけど、誰かにとっては問題ではないとか。

もっと単純な例だと、ある食べ物は誰かにとっては美味しいが誰かにとってはまずいとか。

だから、考えればすぐにわかるはずだ。

同じ事象でも人によってそのツラさは違うと。


私がツラかった頃、アフリカの恵まれない子供たちの例をよく出された。
日本にいるだけで恵まれてるだの、そういう話をされた。

だから私も少しだけ極端な例を出す。

母親を事故で亡した場合ツラいと感じる人が多いと予測している。
でも、その人と母親との関係性が悪かったり、その人の人生において母親が害だった場合はその限りではないかもしれない。

母親を事故で亡くすという同じ事象でも
ツラい人、ツラくない人はいると思う。

しかし、前提条件が異なるので同じ事象と言っていいのだろうか。

人それぞれ違う人生を歩んでいるのだから、環境や価値観は違う。客観的な事象は同じでもその意味付けは変わる。
そういう意味で同じ事象など存在しないのかもしれない。

だから他人の辛さを自分の基準で測ることはそもそもできない。
周りはそれを否定してはいけない。


人それぞれ感じ方は違うのだから、その人が辛いなら辛いのだ。


しかし、多くの人が辛くないことが、辛いというのは生きにくい。

その人の人生はその人のものだし、その人が乗り越えないといけない辛さでしかない。


はて、私は何を書きたかったのだろう。







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