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【これができれば一次選考突破も夢ではない!】小説を小説たらしめる最低限のルールとは(2018年4月号特集)


ルールはないようで、ある

ありありと感じがわかるのが描写文

 小説になってるかどうかのひとつの判断基準は、描写で書かれているかどうか。描写とは、様子がありありとわかるように書くこと。感じがわかるようにいきいきと書くこと。

 たとえば、「あなたの手」について書くとしよう。〈指と手のひらからなる部分。〉これは観念的な「手」の説明に過ぎず、この文からは「あなたの手」は浮かんでこない。〈私の大切な家族のために差し出すべきもの。〉思いは理解できますが、抽象的な文章だから絵が浮かばない。描写をするには、目や耳や鼻など五感を総動員して、見たままをありのままに写生する。写生文が描写文の基本となる

形あるものの描写・ないものの描写

 形があるものの描写のコツは、主人公が見たものと同じ像を、読者の頭の中でも再現させること。そのためには細部や象徴的なところに注目し、その状態などを的確な言葉に変換していく。その際、見たものを端から言葉にしていくと膨大な量になってしまうので、どこを書いてどこを書かないか取捨選択が必要だ。

 次に形がないものの場合。その代表が心理や印象、感覚だが、これらは形を持たないので、形にしてやる。たとえば、「やじろべえのように不安定な年頃」のように何か似たものにたとえる。また、「悲しい」なら悲しい表情や言動を書くことで悲しさを表現する。これは外側を書くことで内側を浮かび上がらせる手法だ。

小説になっていないと言われるパターン

作為がまるでない

 小説は創作だから、実際にあったことをただ単に書いた自分史のたぐいと思われてはだめ。話はウソくさくてはいけないが、作為をもって作為がないように見せる。

話が破綻している

 前半と後半で性格が違っても、状況次第ではそのほうが自然なこともあるからそれでいいが、ストーリーは尻切れだったり、支離減裂だったりしていてはいけない。

描写で書かれていない

 人物の内面について「悔しい」「悲しい」と説明をするような書き方はNG。内面を書く場合は外側(情景) を書くことで内面を想像させるように書きたい。

視点がブレブレ

 表現的な効果を狙って意図的にブラすならだが、視点という知識がないばかりに主人公の目で書いたかと思ったら急にの人物の目で書くようなことは避けたい。

誰の視点なのか、意識して書く

 小説になっていないと思う1つの条件は、視点と語り手。視点というのは、情景を映しているカメラの役割をする人物の目という意味。目と言ったが、これは心の目でもある。

 視点は、人物視点(一人称一視点、三人称一視点、三人称多視点)と神の視点とに分けられるが、圧倒的に多いのは人物視点。特定の人物の目で書いたほうが作中の状況を理解しやすく(基準があるから右左などの位置関係がわかり)、主人公の心に寄り添いやすく、感情移入もさせやすい。

 むろん、どんな視点で書いても自由だが、作者の都合で視点を変えたり、同じ場面の中で急に切り替えたりすると読者は混乱する。

誰が語り手かも自覚しておこう

 小説には語り手がいる。語り手とはナレーターで、『樽とタタン』で言えば、30年以上のちの「わたし」が物語の語り手だ。つまり、子どものときの「わたし」の目を借りて、大人の「わたし」が語っているという構図だ。注意したいのは、子どものときの「わたし」が昔を回想するように語ったらおかしいし、大人になった「わたし」が当時の会話を一字一句覚えているのも不自然ということ。語り手である「わたし」と視点人物である「わたし」は区別しないといけない。区別できていないと視点のブレになる。ブレてもいいが、ブレてしまって違和感と不自然さだけが残るというのではいけない。

語り手がいないかのように書かれる理由

 語り手を通じて物語を読むのは言ってみれば伝聞と同じだ。つまり、 「世に も恐ろ しい男がいたそうです」と言われたのと同じで、読者はその男を直に見たわけではないので怖くもないし、 リアルでもない……

後半では「語りの基本のキ」を解説!
特集「小説新人賞受賞の条件」
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※本記事は「公募ガイド2018年4月号」の記事を再掲載したものです。

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