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KOM-002 「私」について

「ことさら出版」というレーベルを誰がやっているのか、という情報、これまで特に出さないままサイトTwitterなどで「私」という主語を使っています。Facebookで知り合いにこんなの始めました、と告知したり、その告知をTwitterに貼ってる知り合いもいたり、あれやこれやのTwitterやブログを見ると大体わかる情報があったりするのですが、自分からは「私」以上のことは、おそらく一切書いていないと思います。

これ、自分が見ている側なら、ぶっちゃけ気持ち悪いと思います。「誰だよ?」って思ったりしませんか?思わないなら、そのほうが助かるけど、思ってる人がいても我ながら納得です。

で、長々と読んで空振り、では迷惑なので結論を先に書いておきます。

・この投稿を読んでも、誰かはわかりません。

・今後も、自分から言及するつもりはありません。

この投稿は、なんでそうなのか、を説明するだけのものです。それでもよろしければお付き合いください(多分かなり長いです)。

では、改めて、なぜ「私」の情報を出さないのか。

ちなみに、私は自分のことを「私」と言えばいいのですが、みなさんは「私」だとよくわからないですよね。呼称が必要なときは「ことさら」とか適当にお願いいたします。

さらにちなみに、そもそも知っている方は名前で呼んでも大丈夫です。特に、情報を無理に隠そうとしてはいません(CDの写真をTwitterでアップしてくださった方のツイートで、送り状に書かれている個人情報が思いっきり写っていたけどスルーしているくらいには!)。まあ、合わせてもらえるのなら、出さないほうがいいかなー、くらいの感じです。

閑話休題。個人でやっている小さな活動(レーベルに限らず)を広げる駆動力となるのは、その代表者だと思います。カクバリズムはやっぱり角張渉さんあってのものですよね。なので、ことさら出版も、私が名のある人間であったり、行動力のある人間であったなら、どんどん前面に出るのが正解でしょう。

でも、私はまるっきり名もなく、行動力のない人間です。それが理由の一つです。

とはいえ、それだけなら、「それでもやったほうがいい」という話ではあります。引いた目線で言えば、そんな人間が無理して頑張って上がっていこうとするストーリーをつくれたら、むしろ支持を生めるかもしれない…みたいなストーリーブランディングも戦略として考えられるように思います。

どちらかと言えば、問題はあと二つある理由のほうにあります。以下に、それをつらつらと述べてまいります。

①そこまで頑張る気はない

ぶっちゃけた話、うまくいったら生活の糧になる可能性がある試みであることは事実ですが、ことさら出版でメイクマネーをするつもりはありません。むしろ、ずーっと赤字となるのが、現状では最も可能性の高いシナリオだと思っています。

その可能性を減らすために頑張るのが常道なわけですが、私は「頑張らないで赤字でも続けられる生活をする」ことを重視しています。そんなに頑張れるタイプではないこともありますが、正直レーベルなんてやったことないし、業界にいた人間でもありません。頑張ったところで正解に近づけるかどうかわからないし、むしろマイナスになる可能性もある気がするので、無理しないでいい、と考えます。

コラムの連載なども、作者都合ではなく、私の都合で更新が遅れることも多々あると思います(というか、すでに盛大にありました)。ギリギリで原稿が来た!今すぐ更新すれば間に合う!とかいうタイミングがあったとしたら、よほど暇なときでなければ更新は後回しにすると思います。特に仕事をしていたら、そのお金でやれるレーベルなので、仕事のほうが大切だろうと考えます。

あと、基本的にはそんなに頑張るタイプではない、というのが全てながら、レーベルの基本方針的にも、それが正解なのではないか、という思いもあります。

ことさら出版は、前の投稿に書いたように「ただ生きるだけなら、ことさら必要ではないもの」をつくるレーベルです。それこそが私たちの人生に必要なものである、という考えがベースになっているものの、「ことさら必要ではないもの」をつくる人があまりに前のめりですと、少しおかしいような、そんな気もするのです。

もちろん、この世界にある「ことさら必要ではないもの」をつくる人の多くが、頑張る頑張らないとか、そんな次元ではないレベルで命を削って創作していることはわかっています。物理的な意味合いを超えた文脈で「生きる」ために必要だから、そうせずにはいられない。まさにbutajiさんは、そんなタイプの本物の表現者でしょう。

しかし、そんなタイプではないけれど、素晴らしい作品をつくる人もたくさんいるでしょうし、そもそも私は創作者ではなく、その成果物をお借りして何をするのかしないのか、という立ち位置です。

その立場で命を削ってやっている人もたくさんいて、その姿勢に対する敬意もあります。ただ、全員が全員そのタイプである必要はないと思います。むしろ私が生活を懸けて前のめりにことさら出版をやっていて、「3ヶ月以内に遠い街のアルバムを出したい、もうちょっと早く曲と詞できませんか?」とbutajiさんやスズキナオさんに詰めたりしたら、厄介すぎないかなーと思ったりします(それだけの報酬を支払えるならやっていい立場かもしれませんが、残念ながら現状そういうわけではなく…)。

少なくとも、ことさら出版は、普通のレーベルや出版社からリリースするよりも明らかに販路が狭くなるけど、それでも出る分には悪くない、と思っていただける方と組み、極力創作者の負担にならないやり方を考える(人によってはどんどん突っついてもらえるほうが楽、ということもあるでしょう)方向性が現状ではベターなのではないか、と考えています。

②「私」は露出しないほうがいい

①だけなら、やっぱり結局、頑張らないなりに機会があれば前に出てもいいのでは?という話かもしれません。

しかし、そんな機会やお誘いが仮にあったとしても、出ないほうが絶対にいいと考えています。なぜなら、私が社会的にプラスのアピールをできる感じの人間ではないからです。

今現在着ている服も、20年着てるパーカー(バンドもの)の上に15年着てるアウター(もらいもの)といった具合で、物理的にはきれい好きなほうだと思っていますが、社会的にはかなり雑な見た目で生きています。決して生まれ持った容姿の話ではなく、高くなくてもシルエットの合った服を着て、髪をプロにでもセットしてもらえれば、社会的な信頼感を上げられると理解しています。ただ、それをしてまで生きていたくない、という少々極端な考え方でやってきました。

それによるデメリットは当然ありますし、受け入れる代わりに自分にとってのメリットを得ているわけですが、butajiさんやスズキナオさんなど、CDや本の作者にそのデメリットが及ぶことになっても、彼ら彼女らにメリットはありません。もしもあるとすれば、変わった人が「パンクなレーベルだな!」とか思ってくれる可能性が本当に辛うじてあるくらいでしょうか。

現状、言ってしまえばことさら出版のイメージは“無”のようなものなので、遠い街のイメージは、butajiさんやスズキナオさんのイメージ、ソーシキ博士によるジャケットのイメージ、実際に曲を聴いて浮かぶイメージしかないのではないでしょうか。また、それが正解だと思います。

しかし、私が外に出ることで、一人でも私の出で立ちや存在に不快感を覚える方が出てしまったら、余計な色が入ってしまいます。意欲のあるレーベルオーナーによる確信のある色づけならまだしも、本人が社会的に微妙だと自覚しているそれをするべきではないでしょう。

そんなことを言ったら、どんなにちゃんとした見た目の人でも「かっこつけて気に入らない」などと、誰かに不快感を与えてしまう可能性もゼロにはできませんが、少なくとも、本人がその可能性をゼロに近づける努力をしていないのに露出する必要はありません。というか、明らかにデメリットのほうが多い気がします。

そのようなわけで、私は「私」以上の出し方をするつもりはありません。そもそも私が、味方しかいない場であっても、前に出たくない性格なので、「単に嫌だから」の一言で済む話だったりもするのですが…。

(検討中の議題)「私」は薄ければ薄いほうがよいのでは?

もう一つ、理由というほどではないのですが、ぼんやり考えていることがあります。

個人的に、ことさら出版は自分にとっての社会実験の場でもあります(ご協力いただける方に迷惑をかけないことが大前提ですが)。そして、色々と考える中で、「中の人、そもそもいないほうがよくない?」という考えがあります。もちろん「機能」を果たす存在は何かしら必要なのだけれど。

なぜかと言うと、「売る人がいたら、その人が主役でいい」と思うからです。ことさら出版の商品は、通信販売以外の形でも入手可能です。詳しくはこちらのツイートをご参照いただきたいのですが、遠い街のCDの場合、掛率60%の直接取引を行っています。すでにCDをご展開いただいているところもあります。

この直接販売、現状は固定の場所で売ることに手段が限られますが、「個人」→「個人」という販売方法もあっていいと考えています。というか、それができないのかな、と思うのです。

「個人」による販売というのは、ツイートにもありますが、雑誌・ビッグイシューの販売者の方に一緒に売っていただく、というのもそうですし、もっと自由な形もあっていいと思います。

ヘルプマークやマタニティマークのような「ことさら出版マーク」を持っている人が街中にいたら、その場で買える。販売者が「販売モード」になっているとき地図上に見えるアプリがあって、近くに欲しい商品を持っている人がいたら売ってもらえる。あるいは購入希望者が条件を満たすと見えるアプリがあって、先着順で販売者が申し込みを入れ、時間と場所の条件が折り合ったら売りに行く。などなど…。

極端な例ですが、butajiさんのファンが集う飲み会があったら、そこに参加する人が仕入れて参加者に直販する、なんてこともあっていいと考えています(私は。売られる側は戸惑うかもしれません・笑)。個人的にはフリーマーケットとかで売ってもらえたら嬉しいですね。

私自身がそれを実現するソリューションは持っていませんし、開発する気もありません。でも、ほんの少しの進化で、上記のようなことが実現できる可能性は、かなりあると思います。使ったことはないけど、Uber Eatsのアプリとかそんな仕組みなのではないでしょうか。

少し脱線しますが、純然たる「個人」の直販を考えたとき、窃盗などのリスクがまず頭に浮かびました。しかし、たとえキャッシュレス決済ではなくても、A「お釣り用の現金」はそれほどの金額ではないでしょうし、B「CDや本」をいくつか持っていたところで大したお金にはなりません。窃盗リスクで言えば、新しめのiPhoneを持っている人は、全員AとB以上の窃盗リスク(換金性の高さ)があると思うので、問題が起こる可能性はゼロにできませんが、警戒する対象ではないと一旦の結論を出しました。

話を戻します。そうやって「個人」が販売場所になったら、その個々人が目立てばいい話ではないか。むしろ、レーベルオーナーのキャラが立っていたら、売ってくれる人の魅力がスポイルされてしまうのでは…とか、そんなことを日々考えています。

会社員の知人などと音楽話をすると、アーティストを礼賛する話になることがあります。もちろん、アーティストは素晴らしいと思います。ただ、そんなとき、「(自分に比べて、たとえば)butajiさんは本当に凄い」といったニュアンスになることが少なくありません。

私は、そういう話はあまり好きではありません。アーティストをアーティストたらしめている、金銭や評価を与えた人も凄いと思うからです。ファンの仕事と、それによって得られるお金がなければ、「ただ生きるだけなら、ことさら必要ではないもの」の多くは生まれませんし、機能しません。

まあ、惚れたほうが負けなので、どちらかが上かと言えばアーティストが上になるとは思うものの、リスナーも同じくらい偉い。そして、CDを売る店も同じくらい偉い。もしも個人がCDを売る時代になったら、その人も同じくらい偉い。

その理屈で言えば、レーベルやってる人も同じくらい偉いけど、基本的には魅力的なレーベルオーナーは十分褒められているはず。角張渉さんなどは、まさにそうですよね。要するに、いいものをつくることができていれば、アーティストやレーベルの関係者は比較的簡単に賞賛を集めることが可能であるはずです(それが本人の精神状態を安んじるものであるとは限らないのが難しいところですが…)。

一方、音楽がリスナーに届くまでの道のりに登場する、それ以外のプレイヤーって、音楽業界をずっと支えてきているのに、賞賛を集めることが少ない気がします。そういうのが、何か引っかかる性格なのです。

そんなわけで、私は、もしも個人によるリスナーへの気軽な販売が可能になったら、そんな人たちが「音楽を広めてくれる重要人物」として、賞賛を集める社会になってほしいなあ…などと考えています。そして、その実現を願うレーベル(と言えるようなレベルではまったくないので書いてて恥ずかしいのですが)の人間としては、中の人の存在とかどうでもよくね?と今のところは考えています。音楽を例にとりましたが、本や漫画についても言えることです。

…ということで、改めまして、私は極力記名性のない存在で(今のところは)いるつもりでおります。宜しくお願い申し上げます。

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