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〈第十回〉犬の看板探訪記|東京犬23区編<その2>と<その3>|太田靖久|ゲスト:わかしょ文庫

今回は「犬の看板探訪ファン」のわかしょ文庫さんが初参加! 同日の探訪を、前半は太田靖久さんの視点で、後半はわかしょ文庫さんの視点でお送りします。


 太田靖久

 十回目の探訪は東京犬23区編<その2>と<その3>だ。今回は2回にわけて探訪しており、日程も同行者も異なっている。
 連載第2回目の<その1>で9区(江戸川区、江東区、中央区、千代田区、台東区、文京区、葛飾区、足立区、荒川区)を訪れ、連載第4回目の滝口さんゲスト回で1区(世田谷区)を終えているため、撮影済みは計10区だ。東京犬23区編はすべての区の制覇が目的であり、残りは13区となる。

<その2>

 <その2>では「東京メトロ・都営地下鉄共通一日乗車券」を活用することにして、まだ足を運んでいない地域をなるべく効率よく回れるルートを作成した。事前段階では10区が目標だが、はたして結果はどうなるだろうか。

東京犬23区編マップ(赤=<その2>で探訪、緑=<その1>で探訪)

 ゲストとして作家仲間のわかしょ文庫さんが参加してくださっている。『うろん紀行』(代わりに読む人)の著者であり、街歩きをして執筆するというスタイルの同志ともいえるだろう。「犬の看板」にも興味を持ってくださっていて、時々写真を送ってくれるため、お声がけしたところ快諾いただけた。
 編集のSくんとともに王子駅に朝8時集合。ここは北区だ。無事合流後、駅周辺にいくつか公園がある中、石神井川沿いを歩いて区役所横を通過しつつ、北区立中央公園に入った。狙い通り発見。フンを見つめる困り顔の【DOGモ】だ。似て非なる看板が近くにあったため、並べて紹介する。

 これは【模写系】と呼んでいるジャンルだ。元絵(一枚目)があり、それを模写した結果、どこかいびつな形の絵(二枚目)になってしまったと推測される。伝言ゲームで言葉が徐々に変化していくのと同様だ。
 実はこの模写絵の方は武蔵村山市にも存在している。

 他地域に広まったのが元絵(初代)の方ではないのがおもしろい。のれんわけの二代目がフランチャイズ化した現象である。
 駅に戻る途中でも元絵と同じ看板を見つけた。ビスが【DOGモ】の耳の位置にあってピアスのようだ。一枚目の看板の細部を改めて確認すると、こちらは首輪のスタッズ風にねじが打ち込まれている。北区は看板を立体的にする技術に優れているのかもしれない。

 東京メトロ南北線で王子駅から駒込駅へ。こちら豊島区だ。三田線の巣鴨駅までの徒歩移動の間に探索したが、公園や線路沿いや巣鴨地蔵通り商店街でもまったく見つからない。諦めるまでにおよそ1時間30分ほどを要した。大幅なロスであり、無駄足を踏ませてしまったことに恐縮しきりだったものの、Sくんとわかしょ文庫さんは屋台で甘酒を飲みつつ揚げ餅を食べたりしている。その適度にくつろいだ様子を見て安堵した。
 三田線の巣鴨駅から板橋区役所前駅まで乗車。こちら板橋区だ。区役所や保健所周辺に看板はなく、ここでも苦戦するかもしれないと不安が生じたころ、犬の気配を感じて階段を降りる。その予感に従ったことで四角い顔の【DOGモ】と出会えた。

 板橋区役所前駅から日比谷駅で乗り換えて日比谷線で神谷町駅へ。港区は看板が少ないことを知っていたため、身構える。東京タワー周辺の公園などを巡ったものの、区の看板は見つからない。1時間ほど歩いたのち、ここでも断念を決意。本物の犬にはたくさん遭遇したが、マナー違反の飼い主は少ないのかもしれない。美化啓発看板の設置数とその地域のマナーの意識レベルの関係が気にあるところではある。
 ゲスト参加の時はスタート地点で駅名看板を背景に写真を撮るのが通例だが、今回は失念していたため、芝公園にあった【シルエット系】の巨大看板とともにわかしょ文庫さんと撮影。

 神谷町駅から恵比寿駅へ。こちら渋谷区だ。東口を出てタコの遊具がある恵比寿東公園方面に向かう。その横を過ぎたあたりのゴミ捨て場で発見。舌を出したおちゃめな【DOGモ】だ。骨がでかい。

 別途、植え込みの中に恵比寿広尾東地区の看板も発見。犬も猫も丸顔でかわいい。

 喫茶店で小休止したあと恵比寿駅から中目黒駅へ。こちら目黒区だ。豊島区と港区を取りこぼしたダメージがあり、ある程度歩いて見つからないと心細くなって引き返したい心境になる。「できれば公園ではなく路地とかで偶然に出会いたい」とわかしょ文庫さんからコメントがあった。弱気になっている場合ではないと気合いを入れ、目黒区役所方面に行く。攻めの姿勢が功を奏した。
 一枚目は少し破壊された【型抜き系】である。

 区役所に隣接する公園内の掲示板に二枚目があった。下に貼られた素朴な猫の【型抜き系】と違い、ずいぶんふてぶてしい【DOGモ】である。

 三枚目はくっきりとした影が印象的なデザインだ。やや上側からの構図も珍しい。

 四枚目は「Warning! No droppings!!」の警句に注意が向く。

 五枚目は駅に戻る途中の目黒銀座商店街を通過中に発見。犬種はダックスフントだろうか。

 六枚目は柱の下の地面に貼りついていた。大粒の涙をこぼす犬が悲しい。

 次々と遭遇できたことでようやく勢いがついた。中目黒駅から六本木駅を経由して都営地下鉄の大江戸線に乗り換えて西新宿五丁目駅で下車。住宅街を抜ける。ここ新宿区では礼儀正しく座っている犬猫の看板と黄色い【型抜き系】を発見。

 この時点ですでに陽が落ちかかっている。確実にいくなら【犬の看板天国】と認識している杉並区が良いだろうと判断し、中野区をとりあえず飛ばすことにする。西新宿五丁目駅から中野坂上駅を経由して丸ノ内線に乗り換えて新高円寺駅へ。かつてこの界隈に住んでいたというSくんが「絶対あると思います」と力強く断言。その言葉通り電信柱に巻きついている看板を早々に発見。やたら簡素な犬である。手をあげている黒猫もユーモラス。

 その裏側に別の種類もあった。眠たげな表情をしている。

 三枚目はぶち模様がチャーミングだ。

 これらは改札を出てわずか数分の出来事であり、一気に欲が出てきた。わかしょ文庫さんに相談すると「元気です。夜になっても大丈夫です」との回答。頼もしい限りである。新高円寺駅に戻り、新中野駅で降りた。この中野区ではわかしょ文庫さんに第一発見者になってほしいという気持ちがあり、先頭を歩いてもらう。南の方へ向かうと大きな公園がある。わかしょ文庫さんはすでに「犬の看板の眼」を獲得しているのだろう。遠目でも視認できるようになっているようでフェンスにある白い掲示物に小走りで近づいていき、「ありました」と報告してくれた。

 仲の良さそうな飼い主と犬であり、若草色が芝生のようで落ち着く。
 良い形で終われたという達成感があった。豊島区と港区と練馬区は残念ながら先送りとなったが、全部で7区を回れたのだ。上出来だろう。打ち上げをするために中野駅までバス移動。下車し、感想を交わしながら歩く。後半に行くに従ってばてるのが当然なのだが、わかしょ文庫さんは看板を見つけるたびに力を得ているように見えた。「こういう時に不意打ちで看板があったりするんですよね」とつぶやいたところ、「これそうじゃないですか」とわかしょ文庫さんが指さす。

 初見の看板だ。水色があざやかなデザインである。犬のほうけた表情も良い。
 そのまま都道420号を南進して「らーめん花の華 中野店」に入り、カウンター席に着く。担々麺を注文。みんなで黙々と食事をとっているこんな時間が好きだ。それぞれの胸に今日出会った犬たちの姿が去来しているのかもしれない。 

<その3>

 23区の制覇まで残りは6区(豊島区、港区、墨田区、品川区、大田区、練馬区)である。今回は青春18きっぷを最大限活用するため、JR以外の電車には乗らないことに決めた。ちなみに2024年1月現在、JRの駅がない23区は世田谷区、文京区、目黒区、練馬区である。
 ルートに関しては、山手線の目白駅(豊島区)、総武線の信濃町駅(港区)、同じく総武線の錦糸町駅(墨田区)、京浜東北線の大井町駅(品川区)、同じく京浜東北線の大森駅(大田区)、中央線の吉祥寺駅(徒歩で練馬区)と、事前におおまかに定めた。

東京犬23区編マップ(赤=<その3>で探訪、緑=<その1・2>で探訪)

 1月某日、後輩Nくんと朝7時30分に目白駅に集合。<その2>で取りこぼした豊島区をまずは攻略することにした。長期戦も覚悟しながら目白通りを東に進む。うら通りは昔ながらの住宅街がつづくものの、看板は一向に見つからない。鬼子母神堂や雑司ヶ谷霊園の周辺にもない。一時間ほどが経過し、あわてはじめる。池袋駅のような繁華街では遭遇の確率が低いだろうと判断し、都電荒川線沿いの東池袋辺りをくまなく探索する。ようやく発見。三種類すべてラミネートだ。ハングルの警句があるのが珍しい。

 1時間30分も歩き回ってラミネートの看板だけではさみしく感じたため、再び路地へ。粘った甲斐あって【オリジナル系】とおぼしき看板を発見。てれながら脚をあげている器用な【DOGモ】だ。

 かなり体力を消耗したスタートとなり、一息入れるため大塚駅近くの喫茶店「ボギー」でモーニング。バタートーストとコーヒーとゆでたまごのセットを注文した。
 朝食を終えたあと、山手線の大塚駅から新宿駅を経由して総武線に乗って信濃町駅へ。ここは港区だ。都道319号を青山一丁目方面に進む。ビルの下部に一枚目を発見した直後、その横の公園に二枚目があることに気づいた。どちらも【型抜き系】だ。「MINATO CITY」の表記が良い。

 意外とあっさり見つかったことに拍子抜けした。これ以上の深入りは止めて来た道を戻る。信濃町駅から錦糸町駅へ。ここは墨田区だ。北口の改札を出て公園をいくつか巡ったところ、ラミネートの看板が三枚見つかった。

 それぞれ味わいがあるものの、もう少し探すことにした。懸念していた豊島区と港区を最初に終えていたため、余裕がうまれている。北十間川沿いの団地群が気になり、その周囲をなぞっていると初登場の【型抜き系】を発見。丸い鼻がかわいい。

 亀戸駅に向かう途中で中華洋食「喜楽」で串カツ定食を食し、亀戸天神社に寄る。亀戸駅から総武線に乗って秋葉原駅を経由して京浜東北線に乗り換えて大井町駅へ。ここは品川区だ。大森駅方面に向かって南下。暗渠らしき遊歩道に一枚目があった。

 管轄名は大井土木出張所である。飼い主と犬が立ち止まって何かを見つめている構図が良い。その視線の先にあるフンを想像してほしいというメッセージなのだろう。
 二枚目は大きな足の【DOGモ】である。【着ぐるみ系】だろう。

 都道412号を進むうちに大田区に入った。大森駅周辺は看板がない。海とは反対の西の方に向かう。古い壁が連なり、いかにもありそうな風景が続くものの、なかなか見つからない。坂をのぼったりくだったりするうちにようやく発見。2種類の色違いの【型抜き系】だ。目の形状が初めてみるタイプだ。

 三枚目と四枚目はスカーフを巻いているスタイリッシュな【DOGモ】だ。猫がいるバージョンといないバージョンがある。

 急ぎ大森駅に引き返す。次でいよいよ最後の区となる。大森駅から品川駅で山手線に乗り換えて新宿駅を経由。中央線に乗って吉祥寺駅で下車。ここはまだ武蔵野市だ。しばらく吉祥寺通りを北進し、練馬区に入った途端、ガードレールに発見。近くの生垣にあった看板もほぼ同じであるため、一緒に並べてみる。犬のおどけた表情が良い。

 これで23区すべてがそろったことになる。吉祥寺駅に戻る途中、記念すべき最後の看板を発見。【オリジナル系】だ。犬にたいする「わんちゃん」呼びも、英語の長文の警告文も珍しい。

 吉祥寺駅からくだりの中央線に乗車。立川駅で南武線に乗り換えて谷保駅で下車。ここには本連載の版元である小鳥書房の実店舗が存在している。営業時間内にどうにか間に合った。
 編集Sくんと後輩Nくんを会わせたいと目論んでおり、それがうまく実現した。ふたりは犬の看板探訪記における大切な同行者であり、サブキャラクターでもある。23区の看板をコンプリートできたことを報告。「もう本当に終わるんですね」とSくんが感慨深そうな表情を浮かべる。
 <その1>の時に頻出した【浮き足犬】に遭遇できなかったことが心残りではあったものの、都合三回に渡る23区編を無事終えた余韻に浸りつつ、三人で思い出を共有し合った。

わかしょ文庫

彼岸の太田さん

 犬が現れると太田さんの関心は全て犬に向かう気がする。太田さんは犬100周囲0の状態になり、その場に自分がいてもいなくても変わらない感じになる。置き去りにされたようでさみしくなるのだが、犬を前に喜びを爆発させている太田さんを見るとこちらまでうれしくなる。だから感情の帳尻はあっている気もする。いままでに数回そういうことがあり、そのたびに、

(太田さんが彼岸に行ってしまった)

と思っていた。彼岸は言葉や理屈の通じない世界であり、わたしは行くことができない。間にごうごうと音を立てて流れているのは三途の川で、あちらはきっと犬天国。

「かわいぬ」と「きたないぬ」

 わたしはもともと一読者として、「犬の看板探訪記」を毎月の楽しみにしてきた。しかし、ゲスト参加のお誘いをいただいてから、お返事するのに逡巡した。理由のひとつに、「自分は大の犬好きというわけではない」というのがあった。犬は決して嫌いではない。どちらかというと好き。かわいいと思う。でも、犬ってみんな好きじゃないですか? 軽々しい好きではなく、大好きな人が多くないですか? 犬の好き嫌いの中央値がだいぶ好きに傾いているから、わたしが犬を好きといっても犬好き偏差値は48くらいになるだろう。

 犬はどちらかというと好きだが愛犬家はあまり好きではなく、ペットショップ・ビジネスは明確に嫌いだ。街には清潔な犬ばかりが溢れていて、犬が好きなひとの大半は、結局はかわいくて健康な犬しか好きじゃないんじゃないかと思うことがある。かわいい犬、「かわいぬ」を大好きなひとはすでにたくさんいるから、あえてわたしが好きになる必要はない。雑種の犬とか病気の犬とか歳をとった犬、「きたないぬ」は、かわいぬしか大切に思わない不貞の輩のぶんまでわたしがたくさん好きになってあげたい。わたしにはこの奇妙なバランス感覚だけがある。

 申し遅れましたが、わたしはわかしょ文庫という名前でエッセイを主に書いている者です。文学系同人誌即売会の文学フリマなどで活動していて、言ってしまうとただの太田さんのファンかもしれません。太田さんには創作や人生の相談をさせてもらったり、「森君在籍時のSMAPのシール」や「石田純一の主演映画のポスター」をいただいたりと、いつも大変お世話になっています。わたしは、犬の看板を見つけたらできるかぎり撮影し、太田さんに確認してもらうことにしています。太田さんは以前、「前提として『かわいくない犬』がいない」と書かれていたので、信頼できると思いました。[注]

いざ冒険の旅へ

 犬の看板探しは、スタート地点の王子から難航し、駒込、巣鴨にいたっては不毛の地だった。太田さんと佐藤さんは気をつかってくれて、ゲストに犬の看板をお見せできず申し訳ない、といったことを言った。わたしは内心、自分のせいではないかと焦っていた。

(大の犬好きってわけじゃないんだよなー)

というヨコシマな気持ちがDOGモたちに見抜かれ、そちらがその気なら、とそそくさと姿を隠してしまったのではないか、というメルヘンチックな妄想に囚われていたのである。

 犬の看板を見つけるコツを太田さんに尋ねると、体力勝負、ガッツ、という返答だったが実際にその通りで、草の根をわけながら地道に探し続けた。太田さんは犬の看板を探しながら、ハミングというか、歌っていた。なんの曲かはわかりませんでした。歌うことは大概の場合は敵意や戦意の対極にあり、歌っているだけで楽しくなることもあるはずだから、もっとみんな普段から街中で歌ったらいいのにと思った。でも、わたしはきっとこれからも外では歌わないだろう。

 探している最中、佐藤さんが「こっちの路地も見てきますね」と言うとき、ついていくこともあればついていかないこともあった。後半は疲れてだんだんついていかなくなり、太田さんとわたしは黙って待っていて、佐藤さんだけ小走りで見に行く。しばらくすると佐藤さんは、「なかったです」と言って戻ってくる。その感じが電話の親機と子機みたいで、そこまで失礼なたとえというわけでもないだろうし言っても別によかったのだけど、言わないで自分だけでそのイメージを楽しんだ。

天国への切符

 犬の看板探しに常勝のメソッドは無いがおおまかな傾向はあるとのことで、公共の施設の周辺に多いという。住宅地の場合は、新興住宅地や高級住宅地よりも、築年数が経っていてごちゃついている庶民的な住宅地のほうが見つかりやすいらしい。徐々にわたしにも、なんとなくこの住宅街にはありそうだとか、わかるようになってきた。わたしはここで、はたと気がついた。犬の看板を自宅の周りに設置するひとは、犬好きとは限らない。むしろフンを嫌がり警告するくらいだから、犬に対してフラットもしくはマイナスの感情を持っている可能性がある。すなわち、太田さんよりもわたしのほうが犬の看板を設置する人に近い。ということは、わたしのような人間は、より看板設置者の心理を深く理解できるという意味で、犬の看板探しに向いていると言えるのではないか?

 犬好きが高じて犬の看板まで愛してしまった太田さんを見てきたので、

「犬の看板=犬へのとてつもない愛を表すもの」

という図式が頭のなかにできていた。しかし、よく考えなくてもわかることだが、それは誤りだった。犬の看板には、犬を深く愛している者にしか描けないような意匠も数多く存在し、犬好きたちの心を射抜いている。だが、看板を設置する人は、メッセージが伝わりさえすれば、デザインなんてどうだっていいと思っているかもしれない。

 わたしは、犬を前にすると気後れしてしまうのに、犬の看板の前ならはしゃいでしまえる理由がわかった気がした。わたしは犬天国には行けないけど、犬の看板天国になら行ける。ちなみに犬の看板天国は各地にあるそうで、世田谷区にもある。世田谷区には実際に犬の看板がいくつもあった。

身体が覚えている

 当日はとても天気がよく、わたしはだんだんとハイになっていった。照り返しで視界が白くぼやけるのを感じながら、わたしは歩みを進める自分のリズムによって、何かを思い出そうとしていた。てってってってと歩くそのリズムは、かつて祖父が飼っていた犬を散歩させているときのリズムと同じだと気がついた。小学生の頃、わたしは祖父母の家に遊びに来ているときはしょっちゅう、犬を散歩させていたのだ。

 祖父の飼っていた犬は雑種のきたないぬで、外飼いの犬だったから、なでると手にべとべとした黒い脂がついた。鼻を近づけると臭かった。季節の変わり目に毛を引っ張るとたくさん抜けるのが楽しくて、犬のさみしそうな表情を無視して、いつまでも飽きることなく抜き続けた。ベースは柴犬だと思うけど茶色で大きくて、賢くておとなしかった。きたないぬだけど目はつぶらだし、きれいな美しい犬だった。

 散歩をしていると毛並みは光を受けて透き通り、一歩一歩進めるたびに大きな背中が左右に揺れた。舗装のされていない砂利道を散歩しているとふと誘惑に駆られ、わたしは走り出す。すると犬は呼応するように走り出し、というよりもはや、わたしを無視して、犬にとっての全速力を出そうと、ギャロップの足の運びとなる。わたしはあっという間にへとへとになって足がもつれ、立ち止まってリードをぐんとひき、犬はびいんとひっぱられる。わたしはしばらく立止まって息を整えてから、ゆっくりと歩きはじめる。犬がフンをすると拾ってビニール袋に入れ、歩いていると、またもや誘惑がむくむくと湧き起こる。わたしは走り出し、犬は全速力を出し、わたしはすぐに力尽きて犬はまたびいんとなる。散歩中に走り出すのは危ないから母親に禁止されていたけど、道には我々以外誰もいないからばれやしなかった。共犯関係が妙に心地よかった。残念なことに、その犬は祖父が花火で脅かした拍子に脱走してどこかに行っちゃったんですが……。ちょうどその頃、よく似た犬を飼い始めたひとが市内にいたので、おそらくそういうことでしょう。

 久しぶりに、その犬のことをありありと思い出した。毛並みや匂いや体温や、足の運びのことを。わたしより妹のほうが、犬好き! 超好き! という感じでその犬をよく構っていて、わたしは、犬? まあ好きだけど、とクールぶってその様子を遠目に見ていたけど、わたしもちゃんと犬が好きだったのだ。思い出すことができてよかった。

緩衝地帯としての犬の看板

 すっかり日も暮れてお開きとなった。中野区の看板は、無事にわたしが見つけられたので安心した。
 打ち上げで太田さんが、

「犬が嫌いなひととは究極わかりえないのかもしれない」

というような意味のことを言った。太田さんはそう言ったあとすぐに否定したが、大の犬好きというわけではないわたしはドキーン!とし、正直に言うと、心のなかで(こわ)とつぶやいた。わたしは顔をとりつくろって担々麺のスープをレンゲですくい、ずぞぞと啜った。

 でも、実際にこの世には犬が嫌いな人もたくさんいるわけで、犬が嫌いだからこそ犬の看板を設置する人だっていることだろう。だが皮肉にも、その看板によって歓喜する犬好きもいる。その意味では犬の看板は、犬好きと犬嫌いの緩衝地帯と言えるのではないだろうか。犬の看板にはいつだってこんなメッセージが書いてある。

「犬のフンを持ち帰りましょう」

 すなわち犬の看板は、異なる立場に立つ者同士のコミュニケーションを実践しているのだ。主義や立場が違ってもそれぞれを隔てる川なんてなく、同じ場所でやっていくしかない。ここを天国にできるかどうかは自分たち次第だ――というようことを、もしかしたら我々は、犬の看板から学ぶことができるのかもしれない。言ってしまえばわたしはいつも、いまいるこの場所を楽しむ姿勢や方法を、太田さんを通じて学んでいるのですが。

 この日は四万歩以上歩き、お二人に健脚だと褒められて気分がよかった。自分が意外と歩けるということを知り、成功体験に味をしめて、用が無くても出歩くようになった。犬の看板を見つけたらもちろん撮影する。自宅の周辺は同じような看板ばかりでつまらない。まだ誰も見たことのない(?)新しい看板に出会いたい。そして、撮影して太田さんに見せたい。決意を新たに早足で歩いていると、思わずフフフフンと鼻歌がこぼれた。

[注]太田靖久「「犬の看板」探訪記 《茨城犬編》」『生活考察 vol.6』、タパブックス、二〇一八年 p.95



著者:太田靖久(おおた・やすひさ)
小説家。2010年「ののの」で第42回新潮新人賞受賞。電子書籍『サマートリップ 他二編』(集英社)、著書『ののの』(書肆汽水域)、『犬たちの状態』(金川晋吾との共著/フィルムアート社)、『ふたりのアフタースクール』(友田とんとの共著/双子のライオン堂出版部)など。そのほか、文芸ZINE『ODD ZINE』の編集、様々な書店でのイベントや企画展示、「ブックマート川太郎」の屋号でオリジナルグッズ等の制作や出店も行っている。無類の犬好き。

著者:わかしょ文庫
作家。1991年北海道生まれ。著書に『うろん紀行』(代わりに読む人)がある。『文學界 2023年9月号』(文藝春秋)に「二つのあとがき」を寄稿。出版社トゥーヴァージンズ「SIDE TRACK」にて、「美しきもの見し人は」を連載中。Twitter: @wakasho_bunko


初出用語集
【模写系】
元絵を模写したような看板。元絵を模写した結果、どこかいびつな形の絵になっている。

◻︎おすすめ休憩スポット(編集S)◻︎
【とげぬき地蔵尊高岩寺の露店(巣鴨地蔵通り商店街)】
空っ風が吹きつけるなか3人はずんずんと進み、気づけば地蔵通り商店街に。正月の賑わいをよそに路地の隅々まで目を凝らして歩きます。看板はなかなか見つかりませんが、ふと目に入ったのがほかほか湯気を立たせる甘酒と、パチパチ音を立てる揚げ餅でした。お寺の前で、ほっと一息。冷えた身体がじんわり温まります。それにしても正月の早朝から犬の看板を探してるって。良い年始です。


連載について
犬を愛する小説家・太田靖久さんのライフワークである「犬の看板」探訪を全12回にわたってお届けします。
公開日時は毎月30日18時です。第十一回もお楽しみに!

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