昭和天皇
日本人の魂を蘇らせる🔥
こんにちは氷神です!今回は、素晴らしき第124代天皇、昭和天皇についての記事を書きたいと思います、ちなみに以前にYouTubeにアップした動画を記事化したものでもあります。↓
こちらの動画嬉しい事に、とても再生数が伸びております!多くの方に見てもらって僕も嬉しい限りです
記事化した今回の記事も是非!最後までご覧ください。
今回の記事の内容は、僕が読んだ本!国史啓蒙家、小名木善行先生の書籍「美しき日本人たち」で記載されてる事を引用した内容を含んでおります。
天皇の作った和歌の事を御製という言い方をするんですが、この昭和天皇の御製で
「やすらけき世も祈りしもいまだならくやしくもあるかずきざしみゆれど」
この歌は昭和63年の8月15日の全国戦没者遺族に御下賜あそばされた御製なっております、非常に含蓄のある歌であろうと思います。
安らかな世をずっと祈り続けてきた、でもそれは未だなっていないそういう事が悔し、兆しは見えているけれども、そこに手が届かないという事を意味といします。
「このやすらけき世」をこれを実現するのは他でもない我々日本国民自身ではないかというふうに思います、
この昭和天皇についての終戦直後の出来事を今日はご紹介していこうと思います。
昭和20年の9月の27日同出来事になります昭和天皇がたった1人通訳だけを連れてGHQの総司令官でありますマッカーサーのもとを訪ねました、
マッカーサーはこれでついに天皇を捕まえる時が来たと!
2個師団の兵力まで退避させていたんですこの時点で、実は陛下をどのようにするかは GHQ 連合軍最高司令官総司令部の中で議論が交わされていて、大きく分けて3つの方針があったんだそうです
一つ目、天皇を東京裁判に引き出して絞首刑にする
二つ目、日本共産党をおだて上げ人民裁判の名のもとに血祭りに上げる
三つ目、中国に亡命させて秘密裏に殺害する
とんでもない話なんですが現実にこの3つの方針というものが、決まっていたんだそうです、陛下を亡き者にするという事であったわけですこのことがあったがゆえにマッカーサーは陛下が命乞いに行ってきたもんだというふうに思ったんだそうです
そこでマッカーサーはアメリカの象徴でもあるコーンパイプを銜え、ソファに座って足を組んだ状態のところに昭和天皇が入ってこられたました
コーンパイプをくわえて傲岸不遜な態度をとっているマッカーサーの前で昭和天皇は直立不動の姿勢をとらると国際儀礼としてのごあいさつをしっかりされました。
そしてそのうえで次のように仰せになりました
「日本国天皇はこの私であります、戦争に関する一切の責任はこの私にあます、私の命において全てが行われました、日本にはただの1人の戦犯もおりません絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」
このようにおっしゃれれました…通訳の方はこまりました…しかし陛下はそのまま話を続けられました
「しかしながら罪なき8000万の国民が住むに家なく、着るに衣なく食べるに食もなき姿において、まさに深憂に耐えるものがあります
あたたかき閣下のご配慮をもちまして国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
それまで不遜な態度をとってきたマッカーサーはこれを聞いて大変に驚きました!世界中どこの国の君主でも自分が助かりがたいがために平気で国民を見捨てて命乞いしあるいはその国から逃げてしまう、これが世界の常識なんですね
ところが陛下はやはり軍閥(くんばつ)が悪いとかやり財閥が悪いとかいう当時の日本のご時世下において一切の責任はこの私にあります!絞首刑はもちろんのこといかなる極刑にされてもと淡々として仰せになられたわけです
マッカーサーは態度を一変し加えていたコーンパイプを机に置き、そして椅子から立ち上がると陛下に近づき今度は陛下を抱くようにしてええかに椅子にをおかけになっていただきました
そして他の者に陛下は興奮してをいるようだからコーヒーを差し上げるようにそしてマッカーサーはにかけて頂いた陛下の前に立ってそこで不動の姿勢をとります
「天皇とはこのようなもうでありましたか!
天皇とはこのようなものでありましたか!」
彼は二度同じ言葉を繰り返しました、そして
「私も日本人に生まれたかったです陛下御不自由でございましょう
私できますすることがあれば何なりとお申し付けください」
とマッカーサーは言ったそうです陛下も立ち上がられました、そして涙をポロポロと流しながら
「命をかけて閣下のお袖にすがっております、この私に何の望みがありましょうか重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますよ」
と仰せになられたそうですその後マッカーサー陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開け陛下お見送りしました、そして慌てて階段を駆け上がると、これまでの GHQ の方針を180度変更する新たな命令を下しています。
この事があった後マッカーサーが言ったそうです
「陛下は磁石だ!私の心を吸いつけだ」
昭和30年代頃、その時代においても学校給食がありました、まだまだ日本が貧しかった時代です。学校給食でコッペパンと脱脂粉乳(だっしふんにゅう)そしておかずが少々というような学校給食でありました、この時代の給食の脱脂粉乳というもコッペパンに使う小麦も尽くアメリカから輸入をしていたものであります。
また終戦後の日本中が焼け野原になっていて食糧生産も滞っている、その状況の中において外地から600万人の日本の兵隊さんが内地に復員してきて、軍隊が解散していますから当然食もない仕事がないわけです。
でもその人たちが決して飢えることがないように、アメリカの民間の中でもとにかく日本人を助けようということで大変な運動は起こり、多くの食料支援というものが行われました。
そうやって我々は戦後の命をつなぐ事ができた、先代たちというのはアメリカと本当に激しく戦った、その後にアメリカのおかげでなんとか命を繋いで、そして子をなし今生きている子や孫が我々の世代という事になってきます
アメリカが日本を占領していながら、日本の国体、天皇の存在というものをそのままちゃんと維持していくという決断を下したのも、昭和天皇のこの時の行動があったからという風に言えるのではなかろうかと思います。
この昭和天皇の時代に日本は大変な戦争の惨禍にあい、そしてその後戦後の焼け野原からものの、見事に復興していきました、戦争が終わってから19年後の昭和39年には世界中から多くの人を集めた東京オリンピックが開催になりました、そしてその後、日本は高度経済成長を遂げそしてそのまま行けば日本が世界最大の経済大国になるのではないか、と言うぐらいまで日本は経済的にも政治をすることができました。
その経済成長まで遂げた日本、この高度成長のまったの中にありまして、昭和天皇は冒頭に申し上げましたこの御製を読まれているわけです
やすらけ世祈りしても未だならず
日本はその頃高度成長経済によって大変なお金持ちになったのかもしれませんが、昭和天皇祈られた日本の姿というのは安らかな日本の人々が欲をかいて、もうこれでもかというくらいまで頑張る、そういう日本ももちろん素敵だけれども、皆が安らかに安心して安全に暮らすことができるそういう日本というものを昭和天皇はずっと望まれていたのではないかと思います。
兆しはあった今日本は高度成長の時代から安定成長と言いますけど、全く経済の成長がないというひどい状態になってきています、それでもう日本人の中にかなりやっぱり焦りがあるなぜか日本は食料の生産が非常に少ない食料自給率が先進諸国の中でも最低ランクです、
日本の農業を復活日本人が安心してちゃんと食べていくことができる、そういう国というものを一日も早く取り戻し、そして本当に昭和天皇にここまで頑張りましたと言えるものをしっかりと残して、子どもたちあるいは孫たちにしっかりと残していきたいなと言う風に思います。
そのために!今できることを一人一人ができる事は、ほんのちょびっとか分からないけれどもでも、そのちょびっとっていうことをずっと続けていく!そうする事によって必ず日本は復活していくんだと思います今日のお話は以上でございます。
最後までご覧いただきありがとうございます。
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