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百姓一揆

大和魂を蘇らせる🔥氷神です!今回は江戸時代に起こった『百姓一揆』についての記事を書きましたので、是非最後までお読みください。

この記事を動画にしたのも、ございますのでURLを貼っておきます👇



今回は百姓一揆についてのお話になります、学校の教科書ですと典型的にも百姓一揆と言ったら役所さんたちが暴れ回ってもう略奪の限りを尽くすっていう!よくあるような暴動のようなものだと。

そう思い込まされてしまっている方が多いんじゃないかと思いますが。

これは真っ赤の偽りなんです!


昔は、田んぼで稲作ばかりするのではなくて野菜や大豆なども育てなくてはならないわけですお米だけ食べればいい、というわけにもいきません!


他の作物との調整も必要になってくるです、前の年お米の収穫が少なかった、今年はちょっと多めにお米作ろうかとか、多めにお米を作るとはいってもそのために大豆畑を犠牲にするわけにいかないですし

人が生きるとは、毎日がトラブルの連続だっのです、なのでみんなで話し合って揉め事を起こさないに、ように上手にまとめて生きていくっていうのがこれが人間の世の中なのです。

ところが、時々お代官の頭が硬いと言う事があるのです、昔は特に割と早い段階で隠居してしまうです、昔の就職とかっていうのは本人が就職するのではなく、家がその仕事に就くのです。

例えばを城勤めの武士が官僚か何か、今でいう経理部なんかで仕事してたとします、この様な位置の人はやはり責任伴われるわけです、失敗すると切腹となりかねません。

そんな風な事があって、できるだけ早い段階で家族を倅に譲って自分はご隠居さんとして、余生をのんびりと暮らしていく、ご隠居さんだと勤めに出ないのです、そして給料は家がもらうわけです。

自分が貰うわけではないので、その家の誰が働きに行っても給料変わらないわけです、なので倅に若いうちから経験積んでもらって早い段階で父親は息子さんに家族を譲って

息子さんがお城に行くようになり、父はご隠居さんとなり近所の道を綺麗に掃いたり、歌回や碁会所に行ったりなどして過ごしていくというのが昔の生活だったんです。

そんな中で早い段階でお代官所のお代官が引退して、息子さんが新代官として赴任してくるわけです、

同じお代官は、とあるお殿様だったとします、とあるお殿様が引退して、引退したお殿様の倅が後を継いでお代官様になりました、しかし親父の方は経験豊富だからお百姓さんから


「今年はねあの米がとれなくて〜悲田も続いきました、米だけじゃ食っていけないから、こちらの田んぼで、ちょっと大豆の収量を増やして、少なくとも豆腐くらいは毎日食べれる様にしたいですよー」

って話しをお百姓がさんにされて

「そうか!話はわかった!ちょっと上の方に言うとから今年の年貢の出来高の2割減で出してもらえばいいから、その代わり違う田んぼで大豆ちゃんと作ってくれよ」


といってお年寄りのお代官様はは融通効いたりするわけです、ところが後を引き継いだ倅の方は真面目で言われたことをそのまんま従うわけです


去年の作付けが悪くてお米の出来が悪かった、例年の7割しかお米が食べなかったそれでも納めてもらう、お米は300俵と決まっているだから、この村では毎年300俵の米を出してもらうという決まりになっている。


ずっとその様にやってきました!そこでお百姓さんは、


「お代官様の300俵は今年ちゃんどうしても無理でございます、なんとか240俵でなんとかこれでこらえていただけないでしょうか」

これを聞いたお代官様はというと

「なりませぬ!そのようには聞いておりません!あくまでもそなたの村は、300俵と決まっておる300俵を収めていただきます」

「確かにその様な基礎なので、それは仕方がないですが、そこをなんとかしてもらうためにお代官様がいるのという事ではないでしょうかぁ〜?」

とお百姓さんも言うわけです!


それを聞いても...

若いお代官様:「拙者はお代官の仕事をそのようなものとは聞いてはおらぬ」

百姓さん:「えー!先代はもっと融通聞いてくれましたよー」


若いお代官様:「先代は先代私は私でございます300俵を収めていただきます」


身も蓋もない話ですがこうなっていました

するとはお百姓さんにしてみれば奥さんや子供を食っていかせてやれないっ状態になるわけです、そうすると仕方ない!お代官様に対して、一揆やって代官様に年貢を下げてもらうしかないと

と村の人々は話し合って、意見が合うものが集まって起こったのが「百姓一揆」のよくある例だったのです

要するに自分たちの主張を通そうとするわけです、ところが非常に厄介な事があり、これが徳川の直轄領(ちょかつりょう)だった場合ですと、一揆が起こったという事は、要するに中央から派遣されたお代官様がお百姓さんたちを統治することができなかった、っていう風に上みなされてしまうのです。

お代官さんも、下で安心してお百姓さんたちが暮らしているという、状態が一番ベストなわけです!お百姓達に一揆を起こされると、このお代官様はお百姓達が一揆を起こさなもいように統治するのがお代官様の役目ですから、それができなかっだということで、このお代官様更迭の対象なり飛ばされしまうのです!

今までは大きな代官所のお代官だった人が今度は通勤も大変な、規模の小さな代官所に転勤を命じられるんです。

これだと下手をすると家禄が今まで500俵の旗本だったものが、家督を減らされて300俵なってしまったり半分や250俵に減らされるとかいう事が起こるわけです。


石高によって家の中で雇う家人の数も決まっていましたので、何人か家来をクビにしないといけないという事になるのです。

この駆け引きが厄介だったのです、なので基本的に一揆というのはお代官として起こされたくないから一揆を禁止し、一揆を起こした者は首をはねるられたりとペナルティが科せられる事があっのです。

にも係らず一揆が起こったということは、よほど代官とお百姓等の間がうまくいってないとみなされるたのです、お代官様側も下手すると切腹しないといけなくなるのです。

なのでお代官様も上手に世を渡っていかなくちゃいけないですし、お百姓さん達も文句があったら一揆やるぞみたいな事になると、なんとかお百姓さん達をなだめて、丸く国を運営していたっていうのが現実なんです。

教科書に書いてあるみたいにお百姓たちの一揆というのは、商人のお宅のお蔵を襲って無理やり米を強奪してたみたいな話は滅多にない話なんのです。

ただしそういう打ち壊しや、米問屋(こめどんや)みたいなところを襲って、お蔵にある米を持っていくみたいなこんな事件があったこともあります。

例えば天命7年(1787年)5月の打ち壊し

「天命打ち壊し」といった非常にも有名な事件ですが、有名だという事は滅多になかったから有名なんです、

農民さん達か決起して都市部のお蔵を襲たというのが、天命7年5月の打ち壊しというのは確かにありました。

でもこれは非常に特殊な事情が、重なって起こったわけです、そういう非常に特殊なレアなケースを取り上げて徳川260年の間、打ち壊しが行われ続けてました、って言う事は実はなかったのです!

一期は毎年どっか地域で必ずあったのはあったのです、それによってお代官様が更迭されるということもありました。

ただ一般的に農民さんが強奪を強行したという一揆は実際にはごくごく稀なケースだったのです。



最後までお読みいただきありがとうございます。

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