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和気清麻呂

大和魂を蘇らせる🔥氷神です!

今回の記事は奈良時代に活躍した和気清麻呂についての記事を書きました、この和気清麻呂は恐れずに大きな権力に立ち向かっていった勇気ある歴史的偉人であります、この清麻呂がいなかったら今の我々の生活も変わっていたかもしれないそれくらい大きな偉業を成し遂げた人物ではないかと思います!是非!最後までお読みください。

この時代には急激に成長した原因の一つとしてあるのが、道鏡事件がありました。その道鏡事件について解説していきます


こちらの記事を動画にしたのがこちらです👇





清麻呂は第十一代垂仁天皇の第五皇子でありました、三歳上に姉の和気広虫がいました。 姉は成人すると、奈良の都にのぼって宮中の女官の采女(うねめ)となり、弟の清麻呂は、姉を追いかけるように都にのぼって、宮中の舎人(とねり)となりました。

二人の時は、都で一緒に下宿暮らしをしました。互いによく助けあう、仲の良い姉弟でした。 姉の広虫はその後結婚をして、尼さんになる道を歩み、法名を法均と名乗る事になります。


この時代、孝謙天皇(こうけんてんのう)といって女性の天皇でした、この孝謙天皇が病に侵されていた頃ずっと看病をしていたのが道鏡なのです、当時病を治すのは仏教の力だったので、道鏡は孝謙天皇の為に病が治るようにお経読み上げたりして、孝謙天皇は病を乗り越える事がてまし。


孝謙天皇はずっと看病をしてくれてた道鏡に恋をする事になったのです!そんな孝謙天皇に非常に可愛がられて政治権力まで与えて貰う事にもなりました、道鏡は完全に天狗になり!その後、天皇の地位までも狙おうとするわけです。

この時、大分県の宇佐神宮で御神託があったという話があがり、その御神託と言うのは「道鏡を天皇にすれば国は安定し非常に良い国になる」との神託があったという話がありましたが、これはいわゆる道鏡がデマを飛ばす行為をしたのです

しかしその後、孝謙天皇は称徳天皇と名が変わり、そして称徳天皇の夢枕に八幡平菩薩使いが立つ事になるのです、そしてその使いは「真の信託を伝えるので、法均(広虫)を遣わすように」と告げたのです、しかし法均は病に臥せっていて長旅にとても耐えれる状態ではありませんでした、そこで弟の清麻呂に勅使(ちょくし)の代行をさせるように願い出ました、和気清麻呂がその「道教が天皇に相応しい」という信託を本当かどうかを調べに行く事になるのです。

この話を聞いた道鏡は清麻呂を呼び出し「ワシが天皇になればヌシに大臣の位を与えよう」と誘惑しました、これは言いかえると「ワシに逆らえばお前たち姉弟の命はないものと思え」という脅迫を言われたのです、そんな脅迫も受けつつ大分に出発しました、

この大分に旅立つ清麻呂の姿を見て称徳天皇が和歌を読まれています、

西の海 立つ白波の 上にして 
なにすごすらん かりのこの世を


「西の海」は西方浄土で仏教のことを意味し「たつ波」は高僧である道鏡がなみかぜ立ている事、「なにすごすらん」はそのような事は許さないというメッセージです。


そして大分に着き宇佐八幡宮に到着しました、清麻呂は身を清め心を鎮めて八幡大神に宝物を奉り、大神のご神託を授かろうと宣明文を奏上しました、すると!清麻呂の前に、身の丈約9メートルもあろうか、神々しい八幡大神が現れました!そしてその神は次のように清麻呂に告げました



わが国家は開闢より君臣定まれり。
臣をもって君となすこと、未だこれあらざるなり
天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。
無道の人は、よろしく早く払い除くべし!


これはいわゆる天皇とはその血筋を受け継ぐ者にしか与えてはならぬ!その道教とやらは追放しろ!とこの様なものだったと思います。


清麻呂は、いそぎ都へ帰ると、その日のうちに皇居に参内しました。群臣が見守るなか、清麻呂は御神託のとおり、「道鏡を掃い除くべし」と奏上しました。
「道鏡を天皇にしろ」という信託というのは大嘘でございましたと、皆の前で堂々と話したわけです!当時も道鏡はかなりの権力者です、その道鏡の目の前で「あんた嘘つきだよ」と堂々と言ったわけです。

もちろんその席に道教もいました。道鏡はこの時、もうそれはカンカンに怒り狂いました、しかし皇位に就けなかったとしても、道鏡は権力があるので、
激怒した道鏡は清麻呂を呼び名を「別部穢麻呂」と改名するよう命じ、しかも足の腱を切られて大隈国(鹿児島県牧園町)へ島流しの刑に処されてしまいました。姉の法均(広虫)も強制的に還俗(けんぞく)させられてしまい、
名を「別部狭虫」と改めさせて、後国(広島県三原市)に流罪にされてしまいました。

大隅国に流罪となった清麻呂は、旅の途中で道鏡の放った刺客に襲撃を受けたりしますが、不思議な事に激しい雷雨が起き、どこからともなく勅使が現れて、かろうじて死を免れる事ができたのです、


罪人として輿に入れられて、何日もかけて護送された清麻呂は、大隅国に向かう途中、通り道となる大分の宇佐八幡に、お礼参りをしようとしましたが、足の腱を切られたので足が萎えて歩くことができません、すると山から突然三百頭の猪が現われて、清麻呂の乗った輿の前後を守りながら、八幡宮まで十里の道を案内してくれました。


そしていよいよ参拝の当日には、不思議なことに和気清麻呂の萎えていたはずの足は、なんと元通りに治っていたといいます。

清麻呂たちが流罪にあって焼くその一年後…


神護景雲三年(七七〇)八月、称徳天皇が五十三歳で崩御されました。
即位された第四十九代光仁天皇(こうにんてんのう)は道鏡を罷免(ひめん)して、下野国(しもつけ) (栃木県)の薬師寺別当に左遷しました。
天皇がいったん政治権力者を親任されれば、それは神によって親任されたのと同じことですから、政治権力者は親任した天皇によって罷免されることはありません。けれど次の天皇がその人物を親任するかどうかは、新しい天皇の御聖断です。


ついに道鏡は罷免されました。 光仁天皇のもと、人材が刷新された太政官は、すぐに大隅と備後に飛ばされていた和気清麻呂と姉の広虫の流罪を解き、ふたりを都に帰させました。

そして元の姓名に戻させ、二人の名誉を回復しました。光仁天皇の後を継いだのが、第五十代桓武天皇です。 桓武天皇は道鏡のように信仰を利用して己の私欲を満たそうとする者の政治への関与を防ぐために、あらためて風水を立てて、都をに移設することを計画しました。こうして行われたのが平安京遷都です。

そしてこの計画を提案したのが、和気清麻呂です。権力者に対しても、勇気をもって立ち向かってくれないというという事で、天皇からとても信頼を得て平安遷都の時すべての仕掛けを全部任されるのです。こうして一度は汚名を着せられた清麻呂ですが見事に復活して、京都の都を造営する時に大活躍する程までに返り咲くことができたのです!


今、皇居に銅像が立てられている歴史上の人物は二人です。
歴史はつながっているのです。ひとりは武官の楠木正成です。 そしていまひとりが文官の和気清麻呂です。



そういう意味ではその軍官でありながら勇気を持って自分の命を投げ出す覚悟で、政界の中で戦い抜いたという大変立派な人だったという、まさしく天下の英雄としてで語り継がれるが一人は楠木正成であり一人は和気清麻呂です

そしてそのことを軍官の身でありながら勇気を持っての権力者に対して立ち向かっていっいうところが、やはり日本の過去の歴史の中で高く評価されているのです!


本当に地味に一介の人間として考えて最後は亡くなっていったのです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

参考文献


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