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「文字の存在しない世界」は私にとって「光のない世界」なのだろうと気づく

私も「物を書く人間」の端くれだからであろうか。

「文字」の中に――言うなれば、「書き言葉」「文章」の中に、いつでも必ず「人」の存在を感じるのである。
その人の「声」が実際に耳に聞こえている感じがする、とも、これは言い換えられるだろうか。

「そんなわかりきったことを今更!――当たり前じゃないか。だってそこには、その文字を書いた(打った)、あるいは文章を作った人間が、必ず介在しているはずなのだから。」(ま、今どきはそこに「AIが介在」というパターンも増えて来たやもしれぬが、それでも。)
と、ここnoteに存在する皆様には思われてしまいそうだが。

私が「書く」ということと「読む」ということが好きなのは(というか生活の中心にあるのは)、もしかすると、「話し言葉」つまり「現実世界での人付き合い・人とのやり取り」が不得手(不得手は不得手でも相当なほうだ)な分を、そこで埋め合わせているからかも?なんてことも感じる。

いや、この前、ふと想像してしまったのだ。
「この世にもし、『文字』つまり『書き言葉』がなく、『話し言葉』しか存在していなかったら??」と。
――私にとって「その世界」は、「自分の家ではない場所で夜中に目覚めたが、明かりのスイッチがわからず、その中でずっと延々と動き続けなければならない手探りの世界」くらい微明(真っ暗闇とまでは言わないどさ)だろうなあ、と。
――そうか、つまり、私にとって、文字は、一種の「光」のようなものなのかもしれないなあ、と。

その「光」のない世界――文明前の電気のない世界で、薄暮の時間帯が延々と続くような世界では。
「ヒト」はそこにだっているのかもしれないけれど、でも私にとってのそれは、「半分だけ解かる言語」しか使えない世界のようなものなのだ。
言うなれば、伝えたいことも、聞きたいことも、それぞれ「半分くらい」しかやりとりできない――いや、その半分も、「どちらかというと、より伝えたくて聴きたいほうじゃない」側の半分、という世界である。

私も時折「孤独」を感じることはある。

が、しかし、「真の、奈落の底のような孤独」というものは、もしかすると生まれて此の方、まだ経験したことがないのかもしれないな、と、ふと気づく。

この世界に、「文字」「書き言葉」があるからだ。
「文字」「書き言葉」のおかげで、気づけば私はいつでも、何かしらの「人の声」「人の気配」に囲まれて生きている。――あらためてそのことに気づいたのである。


求めれば――物理的に自らのこの手さえ延ばせば、そこに必ず「人の存在」がある世界に、私はいさせてもらえているのだなあ、と。

私はまだ「紙と本のない世界」(あと、今現在なら、インターネットのない世界も含まれますね)を体験したことはない。
そんな世界を知らずに、今日まで生きてきた。
――今、この世から、読める文字と、それに伴い紙と本が一切消えてなくなったら??
その時は、多分私という存在も、その9割方が消えてなくなるだろうなあ、――いや、存在としてはいるんだけど、「私という存在の9割程度が、自己あるいは他者から認識できない、薄明の中の世界」と、感覚としてはそうなるだろうなあ、と。

この記事中では、「目に映る外側の世界」として、それを喩えたけれど、「自分の内側にある世界も延々と日没後の薄い闇の中の世界」とか、はたしてどんなもんだろう??――これが「単なる想像・想定上の世界」で、つくづくホッとしている。

そして。

「文字」が「光」ならば、そこには「様々な光」が存在してもいるばずである。
――私は、「その光」で、どんな明かりをこれから灯していこう?と、考えている。

「書く」そしてそれを「こういう場で公開する」ということは即ち(それがどんなに、無名の一個人による弱く小さな光であっても)「明かりを灯す」作業であることにかわりはないと、私は感じるからだ。

(「当たり前に存在しているもの」を「当たり前ではない」として想定してみると、いろんな発見があるものである。)