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机にめり込んだ頭

早弁でもしているのか。
頭を机にめり込ませ俯き微動だにしない。項垂れている人間なんてめったにお目にかかることなんてない。
人は辛くても歯を食いしばって顔を上げ前を向き生きていかなくてはいけない。背筋でしっかりと命の重さを支えていかなくてはいけない。一生をかけても見つけることができない使命によって生かされているのだから。

だが悲しみは、あまりにも重すぎたのでしょう。
重力よりも強い圧力で悲しみが覆い被さってきたのでしょう。

ひとりの老人が、椅子に腰掛けテーブルに頭を突っ込んでいる。

まさか自分がデイサービスくることになるとは思ってもいなかった。

その姿をみてぼくは少し遠い距離に位置し微動だにせず、しばらくその場にいることにした。この行動に何か意味や意思をつけたかったのだが、今になってもどんな意味もつけることができないでいる。

デイサービスに来ていたのは奥さんの方。
重度の認知症。ひと言でいえば、自分では何もできない。
手でご飯を食べる。排泄は自由。言葉を発することができないし理解することもできない。
見慣れたはずの旦那の顔に「ぺっ!」っと唾を吐きかける。もう誰の世界ともつながっていない世界に、ひとりで生きているのかもしれない。だから外側の世界から塀を乗り越えてでも関わっていかなければ、社会との接点を持つことが難しいのかも。それが介護というならば、なんともデリカシーのない行為なんだろうか。

関わる自分も糖尿病のせいで足が痺れて力が出ない。糖分をしこたまつめこんだアンパンマン。本当ならヒーローなのに。だましだまし朝、奥さんをデイサービスに送り出すことが精一杯。それが活躍の場だった。
しかしとある朝、アンチヒーローのアンパンマンは玄関先で倒れてしまう。痺れた足がいうことを聞いてくれない。換えの足が飛んでくるわけでもなくうずくまってしまう。胸にぶら下げた携帯電話からデイサービスに連絡を入れ助けを求めた。

老老介護の限界だった。

認知症の妻を支える夫。妻の面倒をみることだけが、その男の生き甲斐だった。顔に唾を吐きかけられようが、尿と便にまみれた衣類を取り替えてきたんだ。妻は県外まで徘徊したこともあったそうだ。
どれだけ苦労しようが、長年自分を支えてきてくれた妻。認知症が進めば進めばむほど愛おしさが増していったのだろう。妻をデイサービスに送り出してから、心配になって自分もデイサービスに来てしまうことあって。静養室のベットで一緒に昼寝していたりもした。小窓から日が差し込み、ふたりのその無防備な光景がなんとも安らかで。ぼくは心がこそばゆくなった。

「もう、俺では面倒を見ることが難しい」転倒しそう口にした翌日、妻は長期のショートステイにお世話になることが決定した。そのまま特養への待機となる。

お別れの一歩目を踏み出してしまったことが、
体中の力を奪っていった。

机にめり込んだ頭。
食事の時に持ち上がり排泄の時も持ち上がる。人間らしいなと思った。

ぼくは言葉がみつからない。
見つけようとしなくていいのかもしれない。
ただ黙って直視することなく、そばにいることにしよう。

介護は大変。介護職はキツイ。そんなネガティブなイメージを覆したいと思っています。介護職は人間的成長ができるクリエイティブで素晴らしい仕事です。家族介護者の方も支援していけるように、この活動を応援してください!よろしくお願いいたします。