見出し画像

【陰の人生#11】タヒへの恐怖

!閲覧注意!
 センシティブな内容を含みます。読む時には、是非自身の心の状態にお気を付けください。
 また、ある程度の検索避けとして普通の漢字ではなく「タヒ」という、ネットスラングを使用して書かせていただきますことをご了承ください。

 さて、何だか「暗夜行路」(志賀直哉)のようになってきました。いつ終わるんだろう?と思っているのは、貴方だけではありません。

 私もです。

 暗夜行路を読み終えられなかった思い出が蘇ります。(違う)

小学生時代の日記

 小学生の頃の宿題には「生活の記録」という日記がありました。宿題をほぼやらなかった私は、当然この日記もほぼ書いた覚えがございません。
 が、やはり低学年の頃にはちゃんと書いていたみたいで、母が何冊か保存していてくれました。

 ある日、引越しだったかのタイミングで物置から発掘されたソレを何気なく開いて読んでみたところ「これは先生もコメントに困るわ…」という日記ばかりで驚きました。

 ある日は、アリがタヒんでいました。

 ある日は、カエルがタヒんでいました。

 ある日は、バッタがタヒんで、それをアリが運んでいました。

 挙句の果てには、ダンボールがタヒんでいました。

 特に描写に熱が入っていたのは「カエル」の回で、数日に渡って連載されていました。
 ウシガエルと呼ばれる大きな食用蛙、私が住んでいた地方では、たまにアレがのそのそと道路を歩いていました。※跳ぶのかも知れないけど、基本、跳びません。
 残念なことに車に轢かれることも、往々にしてありました。
 それを、私は目撃しました。確かに、覚えがあります。大きな公園の前の道でした。通学路で、嫌でもその横を通らねばならず、恐らくまだ真面目に学校に通っていた頃の私は嫌でも観察し続ける羽目になったのでしょう。
 轢かれたばかりの生々しいソレが、毎日観察する内に何度も車に轢かれ、道路の黒いシミになっていく様を、絵日記として数日に渡って先生にお届けしているのでした。

 まさに、諸行無常。

 その数日後は、風に飛ばされたダンボールが車道でやはり車に轢かれ、茶色いシミになっていく様が実況され「これは、ダンボールがタヒんだということです」と締め括られていました。

 ちょっとアブナイ感性です。

 私が3歳くらいの頃にまだ60代だった父方祖父が亡くなっており、その時の病院での様子などを私が克明に覚えている事が長じて判明した際、母は驚いていました。
 多分、印象が強かったのでしょうね。初孫だったので、とても可愛がってもらっていたそうです。

宗教とタヒ

 切っても切り離せない関係、と言わざるを得ません。むしろ、タヒがあるから宗教があると言っても過言ではないと思います。
 タヒに対して、特別な感情があったと思われる私が、宗教というジャンルに興味を覚えても仕方がなかったのかも知れません。

 宗教2世として母と共に信奉していた宗教教義の根幹は以下のようなものでした。
 そもそも人間は「永遠を生きる」ように「作られて」おり、「原罪を悔い改め」「神の側に付き」「ハルマゲドンを生き残る」ことにより、「地上の楽園」で、いずれ「永遠の命」を与えられる(すでにタヒんだ信者については楽園で「復活」させられる)、ということです。それが、神によって聖書の中で約束されているのだと、我々は言い張っていたのです。
 これが正しいとか、間違っているとか、そんな話をしたいのではありませんし、ある意味、それはどちらでも良いことです。

 信じるか信じないかはあなた次第、だからです。こないだ特番見たわ。

 ただ、私が、この教えに最初から違和感を感じていたことは確かです。それは「タヒ」がある世界しか知らないからだ、と言われれば、まぁそうか、とは思いました。

 18歳当時、私が選択した「集会へ行く、宗教信奉者になる」という選択は「父を選ぶか、母を選ぶか」の二択の内から「母」を選んだに過ぎない、ということに薄々勘付き始めていました。
 私は「神の組織」を選ぶか、「悪魔の世」を謳歌するか、の二択の内から前者を選んだつもりになっていたのですが、もしかしたら違うのではないか、と。

父方祖母のタヒ

 10年程度、我家で同居してきた父方祖母が亡くなりました。

 こういう言い方も何ですが、母とは真逆の方向にトンデモ星人だった祖母は当然のように母との折合いは非常に悪かったです。後年は母に頼らざるを得ないことを理解して、母に従っていましたが。
 ただでさえ父と母との血で血を洗う抗争wに加え、誰とも折合わない(父ともw)祖母が謎の横槍を入れるという大変に騒々しい家庭でした。
 私も病んでいましたが、弟達もしんどかったようです。上の弟は、あまりにも家庭が騒々し過ぎて受験勉強出来ない(子供部屋もない)とのことで、大学受験期の数年間は私と一緒にアパートで暮らしていました。(上の弟は中学生の頃に宗教離脱宣言をして以来、戻っていません)

 例の、父のトラウマとなった、宗教にお金を突っ込み過ぎた祖母です。
 この祖母の葬式が、田舎の山の上の立派なお寺さんで為されました。初冬の寒い日でした。雪こそ降っていませんでしたが。

 父方祖母は元々、いわゆる田舎の良いお家柄のお嬢さんだったらしく(現代では何の意味もありません)お葬式にはそこそこの人数が集まり、顔も知らない親戚も大勢でした。ちなみに、こちらのお寺さんは父方祖父が檀家だったお寺さんだそうで、祖母がお金を突っ込んだところとは別のところだそうです。
 読経の響くお堂。その、お堂の障子を閉めた外の縁側に、私と母は座っていました。

 喪主の嫁と長女がwww
 いやいやいや、妾とその娘みたいやんwww

 と、思ったのは随分後になってからです。

 仏教の方も、教科書程度の一般的な知識しかありません。

 ですが、その静謐な寺社の佇まい、キンと張り詰める冬の冷たい空気に響く朗々とした読経の声、高く晴れた青い空と庭の落葉の赤さが程好い調和で、私は何となく、嗚呼、故人を送る舞台装置として此処は美しく機能しているんだな、と、すとんと腑に落ちたのでした。

 良い旅立ちだなぁ、と空を眺めたのを覚えています。

 何も仏教に鞍替えしたとか、そういうわけではありません。ただ「宗教とタヒ」というものの関係について考えさせられることが続きました。

アルバイト

 週に3日程度のアルバイトに行っていました。小さな会社の雑用事務です。同じ宗教団体の信者である年上の先輩がいました。女性です。私はこの方の紹介でこのアルバイトの職にありついていました。
 詳細については、名誉もありますので伏せさせて頂きますが、この方がある日、自タヒを選択されました。私は知らなかったのですが若い頃に心を患い、それが再発なさったとのことでした。少し、自分自身にも苦しいことなのでそのことについての詳細は省かせてください。

 時系列から言うと、彼女が決行したのは私が辞めた後でした。

 アルバイトを辞めた経緯は、上司のセクハラでした。
 当時デブス脱却していた私は、若い女性に対する正当な扱いを受けられるようになっていました。少し、過剰でもありました。
 その過剰な部分になりますが、セクシャリティな表現を含む会話やボディタッチが、嫌で嫌で仕方がありませんでした。自身が性的対象となっているのかも知れない(それが単なる他愛のないご挨拶だとしても)という事実に怯えました。幼い頃から宗教によって培われた、ある意味潔癖な方向への歪んだ性的概念によってなのか、自分が性的対象となることについて病的なまでに直視出来ませんでした。

 連載をここまで読んでくださってる方はお気付きかと思いますが、自分がBL妄想するのは平気なんですよ。
 本当にワガママで歪んでますよね。
 まぁ、こういう方は別に宗教関係なくそう少なくもない(特に私くらいの年齢前後の方)ようですので、一定数見られるオタク腐女子の弊害なのかもしれません。

 ある日、上司に後ろから不意にウエストをガッ!と掴まれたことが決定打になりました。
 跳び上がって驚き、それから気持ち悪さが怒涛となって押し寄せました。何がしたかったのか、よく分かりません。そういうことが2回ほど続き、私が驚くと笑っていました。一応「やめてくださいよ〜!」くらいは言いました。
 泣く泣く、母にアルバイトを辞めたいということを訴えました。

 同じ宗教信者の母の友達も同席してくれて、私は上記のような経緯を話し、アルバイトに行きたくない旨を説明しました。
 母から出た言葉は「そのくらいのことで」でした。「だったらあんたは何が出来るの?」とも詰られました。
 同席してくれたお友達の方がビックリして「若い娘が身体を触られて平気だったら、そっちの方が問題よ!」と母に言ってくれました。

 結果的に私はアルバイトを確か5年ほどで辞めました。私がこうした目に遭っていたので、もしかしたら、先輩も同じようなセクハラを受けていたかも知れません。(雑用事務を、曜日で交代して勤めていたので、実際に一緒に勤務することはなく、その辺りは分かりません。推測です)

 私が働き始めてから3〜4年くらいしてからでしょうか、彼女は入院することになりました。以前にも一度、という話は後ほど聞きました。
 そうなってから思い返せば、会話の端々に、思い当たることがいくつかありました。

 不用意に会話して発言した私のせいかも知れない。

 苦しくなりました。

 告別式は、いつも「集会」が開かれている公民館のようなところで行われました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?