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【陰の人生#05】仄暗く湿った青春時代③

 母に「宗教をやめたい」宣言をしたのは中学生になってわりとすぐの頃でした。

 人によっては、自身の苦しい思い出などとリンクするかも知れません。どうか、心が元気な時に読んでください。
 また、うっかり読んで気持ちが暗く落ち込んでしまったら、早急にお笑いなどを摂取されますことをオススメします。

 ちなみに、この記事は私の記憶を頼りにした単なる私小説です。という体裁を取っております。
 何かを糾弾することを目的とした記事ではございませんのでご承知おきください。

不登校とオカルト症状

 起立性調節障害だったのか単なる生活スタイルの乱れだったのか、判然としませんが、整った健全な生活を送っているわけではなかったのは確かです。
 学校に間に合う時間には起きられず、母に「起こしてよ」と文句を言うも「起きられないほど疲れてるのかと思って」と返答されるという頓珍漢な家庭でした。まぁ、起こしても起きなかったという事態が繰り返された挙げ句だとは思うのですが、年の離れた弟も、思い返せばよく昼から学校行ってたなぁ、と思います。

 朝10時にも11時にもなって起きたのでは、もういっそ学校を休みたい、というのが正直な気持ちですが、起きたら学校へ行けと家を追い出されますので、しぶしぶ家を出まして、実は学校と家の間の公園で時間を潰していました。公園と言ってもブランコの他には何もないほぼ空地で、立地的にも学校の裏手(笑)で日陰でひっそりとしており人がほぼ来ない公園でした。
 今ではほぼ絶滅したと思われますが、当時は近所におじいさんがやっている小さな古本屋さんがあり、そこで1冊50円くらいの本を買って、その公園で読みました。当時まだ連載中だったドラゴンボールはマストアイテムでした。他、司馬遼太郎とか岡本綺堂とか池波正太郎とか、その辺りをよく読んでいました。三島とか太宰とかも読んだかな。有吉佐和子も覚えてます。新井素子や氷室冴子など、年代の近いものも読みましたね。いわゆる文学少女です。
 おじいさんには特に学校にも警察にも通報されなかった模様。夕方、放課後だけ学校に行って友達と喋る、というような生活を繰り返していました。

 学校にも行かない、集会にも行かない、という生活でした。朝起きて学校に行ける日もありましたので、完全に、ではありませんでしたが、不登校児です。
 宗教をやめるつもりになれば何らかの好転がありそうなものだと思ったのですが、実際には、有意義なことは何も出来ない状況が続きました。

 「この世はいずれ滅びる」
 「その時には私も滅ぼされる」

 そういう思考が、ずっしりと心に重くのしかかり、何をも楽しめない心理状態ではあったかも知れません。小学生の頃から教え込まれたそれを、信じていないわけではなかったからです。自分がそこに到達出来ないことを悟り諦め、また、父に抵抗するのにも疲れている状態だったのです。
 1年生の頃の家庭訪問で、母と私は先生に言われました。

「(アラ明日)ちゃんは、このままで良いんですか?」

 って。母の反応は「うちの子の何が悪いって言うんですか?!」っていう啖呵でした。ビックリしてしまったのか、それ以上先生は突っ込みませんでした。
 その頃、私は「母が庇ってくれた、母は私を理解してくれている」と受け取りましたが、今思えば自分の子育てを非難されたようで腹が立ったのかなぁ、と。
 仮に先生がそんなことを言ったら、普通は「すみません、うちの子の学校での様子はそんなにおかしいでしょうか?」ってなるよなぁ、と思い至りました。

 私が中学生になり集会に行かなくなったので、父は、母に集会へ子供達を連れて行くな、と言い出しました。私が、弟の面倒を見られるだろう、と。
 上の弟と二人で留守番をすることになりました。(下は小さいので連れて行かれた)

 夜の6時くらいから10時近くまで、弟と二人での留守番で、大体はテレビを見ながらリビングで時間を潰しました。9時くらいになると父が帰って来る日もありました。(何と、帰る気になれば普通の時間に帰って来れたのです)父が帰ってくればお役御免で私は自室に戻れました。

 母が集会に行くと、何故か私の凶暴性が増しました。凶暴性?よく分かりません。
 ただ、気が付くとテレビの前で弟を殴る蹴るしていました。その様子を、自分の後頭部から見ている、という不思議な現象が生じていました。この当時のことを、弟も覚えており「お母さんが集会へ行くとお姉ちゃんがおかしくなった」と言っていました。
 また、その頃は部屋に一人でいると、玄関の鍵が開く音、階段をトントンと誰かが上がってくる音、が聞こえ、母が帰って来たのだと部屋を出てみると誰もおらず、玄関の鍵さえ開いていない、ということもよくありました。
 ベッドで横になっていると、ドアが開いてバフっと布団に乗っかってくる衝撃があるので、弟の名前を呼んでそちらを見てもドアさえ開いていない、とか。(夢現とかではなく、漫画などを寝転んで読んでいる状態だったりする。衝撃で振り返って「???」となる)

 オカルトなのかな、と思っていたのですが、もしかしたら、私の精神状態の方に何らかの病症が出ていたのかも知れません。

 母に話しても、サタンの仕業にされました。集会に行けば良いんだって。

ムンクの叫び

 こうして思いつくままに中学時代のことを書き連ねてきましたが、読み難かったのではないでしょうか。なるべく時系列に沿って淡々と書いたつもりではありますが、実を言うと、あまり記憶が定かではないのです。
 学校に行かなかった不登校児の記憶と、同人活動などに手を出し始めそこそこ学校生活を楽しんでいた記憶とが被っていますし、その2つは分裂した別人の記憶であったように思えます。

 幼い頃から多少二重人格めいたところがあったようです。母の前と母がいないところとでは、違う人間のように振る舞っていたらしく「どっちが本当のアンタなの?!」と詰問されたことがあるのですが、私にしてみれば「何言ってんだ?」でした。
 そう言えば幼稚園の頃、園の先生に「お父さんがいない子供のようですね」と言われて、心当たりのあった母は家で泣いたそうです。(昭和とは言え、言う方も言う方だとは思うがそこで先生に「そうなんです、実は…」と相談する可愛げというものが母にはない、という事例でもあると思う)虚言癖というか、多少オカルトチックな虚言に聞こえるようなことを言っていたような気がします。
 この時代、そうした傾向が少し強くなっていたのかも知れません。

 ところで、中1の時の「宗教やめたい宣言」に続いて、ハッキリしている記憶として「ムンクの『叫び』を見に行った」事件があります。
 私が「ムンクの『叫び』を見てみたい」と口走ったところ、父が連れて行ってくれることになりました。中2の頃だったと思います。まさに厨二病。

 ムンクの『叫び』は電車で行ける距離の美術館に所蔵されていたらしく、父と二人で見に行きました。
 父との電車旅行、気まず過ぎてほぼほぼ覚えていません。大変申し訳ないことに、見たはずのムンクの『叫び』すら覚えていません。
 ただ一つ、ハッキリ覚えていること。それは、帰りの電車の中で父に、やけに改まって「君は僕の子供だから、18歳までは僕の言うことを聞きなさい」と言われたことです。私は神妙な面持ちで頷きながら、この人「『君』と『僕』」の人なんだよなぁ、マジ笑える、とか、そんなどうでも良いことを考えていました。
 私って本当に残念な子供ですね。

 とは言え、私の人生が少し開けたのはこの時でした。

 1年生の時に自分自身で「やめたい」と決断したにも関わらず、実際に集会に行かないという選択に自信がなかったのです。ハルマゲドンの福音と、母や神様を裏切っているという意識は常に私の心を脅かしました。同人活動やBL嗜好の背徳感はストレスとなり、オカルト現象や擬似的な二重人格・記憶の混濁を生んでいたのではないかと、今にして思います。

 ところが、ここでハッキリと「父によって宗教に関わることを制限され、それを自分で承諾する」という状況が生まれたことによって、私は良心の呵責から解き放たれたのではないかと思うのです。18歳までのモラトリアムです。

 この辺りから【陽の人生】の方の色合いが強くなります。

 電車で行ける距離の高校に、デザイン科がある高校がある、という情報が入り、しかも同じ宗教の先輩が行っていて学校側もそういうことに理解があるらしい、ということを母が仕入れて来て受験を応援してくれる運びとなりました。(これがなければ反対されていたかも知れません)

 ところで、この頃の私のテストの点数は惨憺たるものでした。特に英語と数学がひどく、こんな点数を取ったことがあるなぁ、と覚えているもので、英語28点・数学10点でした。
 100点満点のテストですよ?
 そりゃね、先生も心配しますよ。
 このままで良いんですか?!って言いたくもなりますわ。
 私は、このままじゃ行きたい高校に受からないな、というより、そもそも行ける高校があるのか?と考えました。
 仕方がないので、今までしたことのない勉強というやつをすることにしました。驚くべきことに、私は小学生の頃から宿題はもとより、勉強というものをやった覚えがないのです。机に齧りついてる時は、漫画か小説を書いている時のみでした。
 受験は3教科と小論文とデッサンということでした。5教科じゃないなら、まだ何とかなると私は思いました。国語と小論文だけは膨大な読書のお陰で何をしなくてもほぼ100点が取れたので、英語と数学さえ何とか出来れば。
 内申点は無いに等しいので、当日のテストで文句の付けようのない高得点を取らねばなりません。
 中3の夏休みから(遅い)奮起して、問題集を解きまくりました。その辺りのことは「ビリギャル」か「ドラゴン桜」に譲りたいと思います。(東大には行ってませんけど)

 ちなみに、学校に行っていないことがバレたのは中3の修学旅行の前でした。
 修学旅行の荷物検査、というものが修学旅行の前に行われたのですが、私は荷物を持っていつも通り遅い時間に家を出たものの相変わらずいつもの公園でサボっていました。
 この日はさすがに学校から家に連絡が入ったようです。公園は通学路途中でしたので、あっさりと見付かりました。
 私は「雲が綺麗だったので空を眺めていました」と嘯きました。叱られた記憶はありません。もう、匙を投げられていたのだろうと思います。
 ていうか、こうして文章にしてみると、本当によく放置されていたなぁと思いますね。自分の記憶よりも、ちゃんと学校に行っていたんでしょうか?…いやいや…。母も学校も、遅刻しますとか欠席しますとか、逆に来てません帰って来ませんなどの連絡はしていなかったんでしょうか。
 謎です…。アラフィフにしてみれば、もう40年近く昔の話ですからね…。そりゃ、思い出せなくもなります…。うん…。

 GoogleMapの航空写真でこの時の公園を探してみましたが、周辺が変わり過ぎていて、もう分からなくなっていました。

 ブランコに乗って漫画や小説を読み、アリの行列を観察してみたり、上空を流れる雲を気が済むまで眺め続けてみたり、何となく、思い返せばエモい風景が浮かびます。

 残念だったのは、新海監督風美少女JCではなく某女性芸人似ポッチャリJCだったことです。


 第一期モラトリアムについては【陽の人生】に綴った通りとなります。
 細かいことを言えば色々やらかしもしましたし良いことばかりではなかったと思いますが、それでも思い返せばとても楽しい高校時代でした。
 毎朝ちゃんと通えただけでも偉かったなぁ、私。


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