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【陰の人生#06】モラトリアムの終焉

 前回までのシリーズで、結局18歳までのモラトリアムが訪れた、というところで締め括りました。

 人によっては、自身の苦しい思い出などとリンクするかも知れません。どうか、心が元気な時に読んでください。
 また、うっかり読んで気持ちが暗く落ち込んでしまったら、早急にお笑いなどを摂取されますことをオススメします。

18歳誕生日前夜

 精力的な同人活動、学友との楽しい学校生活、膨大な量のオリジナル小説を量産し、仲良しに押し付けては感想を貰うという苦行を強いつつも、みんな優しくてたくさん感想を描いてくれました。そう、イラスト入りで!デザイン科だったので!大事な宝物で、今も取ってあります。たまに読み返してはムフフとなって自己肯定感を上げています。
 こんな学校生活でしたので成績の方はお察しでしたが、大学受験するつもりもなかったので自分的には無問題でした。(そして、デザイン教科も込みの成績だったので、デザイン教科に関しては真面目な私はそこまで悪くはない成績でした)

 とても楽しんではいましたが、私の心の中には「これは期限付きだ」という枷がはまっていました。今思えば、自分ではめていたのかもしれません。

 誕生日は遅い方でしたので、寒い時期でした。18歳を迎える日の前夜、寝転がって一人でテレビを見ている父のところへ行きました。
 そこで、一言。

「私、明日から18歳になるから、集会に行くね。じゃ、おやすみ」と。

 正直、また喧々囂々の大バトルに発展するかとビクビクもので、出来るだけサッとその場を離れました。
 ですが、父は不意を突かれたのか「は?え?あ、うん…」みたいな反応で、呆気ない【陰の人生】第二期の幕開けとなったのでした。

 カーン!

同人誌がファンロードに掲載

 高校時代での一番の思い出は、オタク御用達のアニメ雑誌のファンロード様に(現在は廃刊かな?)同人誌を2冊、紹介して頂けたことでした。

 東京は遥か彼方の地方在住の高校生となると、そうそうコミケにも参加出来ません。親に旅費をせびることも出来なければ、バイトも許されない家庭環境でした。
 そこで、私が地方でのイベントの他に、自分の実力を図るために出来ることとして目を付けたのが、選抜制でした。
 ファンロードでは、毎月編集部に届く同人誌の中から、二人の読者代表オタク女子(こちらも毎月選抜で入れ替わり)が良いと思った同人誌を選抜して紹介する!というコーナーがあったのです。

 実を言うと、絵そのものには「そこそこ描けている」「下手ではない」という自負があったものの、漫画の作りにはイマイチ自信がありませんでした。どうやら誰でもそうらしい、と近年知ることになったのですが、面白いかどうか分からなくなるんですね。

 「私」という個人は、どっちかと言うと性格は芸人寄りで、友達の間でも「面白いキャラ」寄りの扱いでした。見た目もアレでしたし、動きもオーバーアクションでした。

 ところが、育ちのせいか描出するものに関してはどこか面白さを突き抜けられず、まぁ同人誌と言えばシモネタ系のギャグも満載ですが、そっち方面も知識はあれど後ろめたさがつきまとって作品に反映できません。
 結果として「どこか説教臭いシリアス・もしくは無難でゆるいギャグ」が芸風となりました。今でも、です。自分自身でも、幼少期に受けた育ちや躾、これは聖書の教えに反してはいないだろうか?と考える癖が、自分自身を形成している、と感じています。良くも悪くも。

 そんな私が、よく自身の思考を仮託したのは「歴史モノ」でした。
 歴史モノであれば、多少の殺戮や暴力は「歴史的背景」という言い訳が出来ます。むしろ、聖書の内容なんかそれのオンパレードです。
 司馬遼太郎などをよく読んでいたのも影響したと思います。

 ファンロードに投稿して紹介してもらった同人誌は、まさに宗教2世の苦悩を描いた「天草四郎」モノでした。
 天草四郎と言えば、映画やアニメでもよくトリッキーなキャラとして描かれがちな悪魔的人物ですが(あれ?彼は救世主では?www)私が描いたのは、いわゆる「等身大」の天草四郎でした。

 父はかつて天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」で敗北した西軍に属したキリシタン大名、小西行長の家臣。島流しにあってはいるものの、再び天下の転覆を狙わんと今は雌伏の時を過ごしている。
 一方、四郎は聖書の教えに感銘を受けて真摯に民衆を救おうと教えを説きその美貌から絶大な支持を得るようになり、その人気に着目する父達…。
 周囲の政治的思惑と、四郎の純粋で愚直であるが故に崇高な精神とが相俟って、悲劇への階段を昇っていく… それは果たして天国への階段だったのか?! はたまたその行き着く先は…

 大袈裟に書いて、こんな感じの(笑)

 宗教2世の苦悩www
 文章にしたら、無駄にスペクタクル大河ロマンwww

奥付は1992年発行

 ネットもまだ普及していない時代、雑誌の影響力は偉大でした。全60Pの本でした。漫画本文48Pとかかな? オマケ4コマとかも描いたので。毎日郵便受けに入り切れないくらいの申込みを頂いて、無事、初のオフセット印刷同人誌100部は頒布し切ることが出来ました。
 この経験から、数多の同人誌の中から選抜してもらえる程度の実力はあるみたいだ、と自覚出来るのは励みになりました。
 その後、感想などをお手紙で頂いてそのお返事を書く、というやり取りが何度か続き、私はふと悟ったのです。

 そうか。プロになったら、この拡大版のことが延々と続くんだなぁ。私、やっていけるかなぁ、って。

 その次の歴史モノ同人誌も(こちらは戦国時代を中心にしたゆるいギャグ&掌編漫画詰合せ本でした)無事に掲載して頂けまして、私はこの時、一つの踏ん切りが付いたのです。

 憧れの漫画生活の片鱗も見れたし、まぁ、今後は宗教で生きてっても良いんじゃない?

 ところで、何故私が「オリジナル漫画の雑誌投稿」ではなく、「二次創作の同人活動」をパッション放出の場として選んだかと言うと「いつでも後戻り出来るため」でした。
 お恥ずかしい限りではありますが、身の程知らずの自信満々だったので「投稿なんかしちゃったら、もしかして担当さんが付いちゃったりして後戻り出来なくなっちゃうんじゃないの?!」「東京へ出て来て描いてください!なんて言われちゃったらどうしよう?!」なんて、ナマイキにも心配してたんですねwww

 こうして、18歳前夜へと続きます。

社会人として

 18歳になり宗教で生きていくことを決め、本当は広告代理店やデザイン事務所への就職に心惹かれていましたが、ホワイトっぽく見えたお固い建設業の会社への就職を果たしました。実際、ホワイトでした。
 母は就職ではなく、バイトをしながら宗教の伝道活動を精力的に行う、という進路を私に希望しましたが、父からは当然反対されましたし、学校も進学か就職を勧めましたので(学校のメンツ的にも進路が決まらないまま卒業させるわけにはいかなかったのだと思いますし、先生も親身に心配してくれていました)決めました。

 高校の最後の辺りから宗教活動に専念し始めた私は、当時のコミュニティの中で「ダークホース」と呼ばれました。指導的立場の人に。それwww ギャンブル用語www(ギャンブルは当然ご法度)
 中高生時代も集会には行かないものの、母を先生とする「聖書のお勉強」は地味に続けていたので、知識としては既に必要十分に吸収していました。
 文章や物語を生成することが得意だったこともあり、口八丁で一般の方を丸め込む伝道もなかなか上手く、私はコミュニティの中でメキメキと頭角を現し復帰からおおよそ半年後には洗礼を受ける運びとなったのです。

 それと同時に、就職した会社でも、デザイン科から就職した新人は初めてだったらしく、大変可愛がって頂きました。絵が描けるということで、道路や整備護岸の完成予想図などを描かせて頂いたりし、それはその会社が請け負う仕事の幅を拡げていたようでした。
 自分の仕事を評価してもらっているというのは、自尊心に繋がりましたし、有難く、楽しかったです。

 ところがこの頃から、またしても体調を崩しがちになります。精力的で充実した高校生活を送ることが出来ていたので、起立性調節障害はすっかり治ったものとばかり思っていたのですが、社会人になってから再びその兆候が表れ始めます。夜眠れず朝起きられない、という生活スタイルに再び苦しみ始めました。
 また、通勤電車に乗ると動悸がし始め、お腹が痛くなってしまい途中下車する羽目に何度もなりました。仕方なく、乗る電車の時間を早くし、快速などの電車は使わず途中下車が容易に出来る電車を利用しなければならなくなりました。今、この症状を顧みてみると、パニック障害です。

 この頃の私に一体何が起こっていたのか。

 それは、二分する私、です。

 「サタンの世」に暮らす信者は、決してこの世を楽しんではならないのです。「神の側に付く者」として、明るく清楚に生き生きと振る舞うことは求められましたが、この世はサタンの世であるが故にこの世で成功してはならない、という不文律が浸透していました。

 コミュニティの仲間に、母は言われ続けていました。「いつまで勤めさせてるの?(アラ明日)ちゃんが世に取られちゃうわよ?」と。私も、もちろん直接言われました。

「サタンの子になっちゃうわよ?」って。

 宗教2世として慎ましく生きていくのか、この世の成功を手にして華々しく生きていくのか。
 宗教に生きると決意してもなお、私の心はいつも二分され葛藤を余儀なくされているのでした。

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