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サカナクションを聞いて真夜中に徘徊していた10代の頃を思い出した

(6年前に書いたBlogからちょびっと添削しつつ再掲…)

子供の頃(と言っても、中学生や高校生の頃)、部屋で音楽を聞きながら、ひとりで踊り狂う、という体験は、かなりの人が経験済の照れ恥ずかしい体験じゃなかろうか。

残念ながらしっかりとグレることもできず、日々沸き起こる衝動を持て余していた僕は、ひとりの部屋でロックを聴いて踊るくらいしかできることはなかった。
でも、それがあったから、決定的に道を踏み外さずに済んだとも思う。当時の自分に音楽がなければどうなってたかなんて想像すらできないししたくもない。

もうひとつ、当時の僕には大事な時間があって、それは真夜中にあてもなく外をうろつき歩いている時だった。
10代の僕は、親からの抑圧、学校にも馴染めず、友達らしい友達もおらず、と八方ふさがりでひとり悶々としていた。

何をどうするアテもなく、ただ何かがある気がして、足を潜めてこっそり玄関を出て、誰もいない真夜中の住宅街を、ひとりでほっつき歩いていた。

今思うと、いろいろな鬱屈で訳が分からなくなっていた自分が、自分自身であろうとする、ささやかな抵抗のようなものだったのかもしれない。
ともかく、当時の自分にはそれがとても大事な時間だったし、今思い出してもそれは他の何にも例えられない時間だったと思う。

サカナクションの「ミュージック」を聴いて、そんな感覚を鮮明に思い出した。月明かり、誰もいない住宅街。ほとんどの家の明かりは消え、いくつか点いている部屋の灯りが、わずかに人の気配を感じさせる。通り沿いの街頭が、仄かな明るさと薄暗さの繰り返しを作っている。そんな夜の匂い。

何も言わない
言わない街は静かに
それを聴いていたんだ
弱い僕と同じだろうか

誰しもが通るナイーブな季節、でもそれをナイーブという言葉だけでは片付けられない心の暗闇。「ミュージック」は、それをそっと照らしつつ、でも静かに、ゆっくりと、やがて力強く、肯定感で包み込んでみせる。

振り返った季節に立って
思い出せなくて嫌になって
流れ流れてた鳥だって
街で鳴いてたろ
鳴いてたろ

いつだって僕らを待ってる
疲れた痛みや傷だって
変わらないままの夜だって
歌い続けるよ

この曲に「ミュージック」というタイトルが冠せられるという事は、少なからず山口一郎氏やサカナクションにとって、音楽とはそういうものであったのだろうし、それは今でも大事な音楽の存在理由なのだろうと思う。

僕が中高生当時に部屋で踊り狂っていた時に聞いていたのは、いわゆるハードロックとかロックンロールだったが、今の時代は、そういう「激しい」音楽ジャンル(メロコアとかその辺も含めて)では救いきれないものがあるような気がする。
そこに音響性とビートとメロディーを併せ持ったサカナクションが現れたのは、とても幸福だと思うし、サカナクションを切実に必要とする不幸、というのも時代的な複雑さを反映しているのかな、とも思う。

ポップミュージックの持つ快楽性と、孤独な夜の匂いとを、同時に併せ持って、且つそれらをマジックによって肯定感に昇華してみせるこのワザは、確かに間違いなく音楽そのものだし、孤独な夜から過ぎ去っているはずの僕にも今なお感動的に響く、大事な曲になった。

そして、今夜も、たくさんの鬱屈した青少年の部屋で彼らを踊らせているのは、サカナクションなんだろうなと思う。

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