春になるとそわそわイライラガタガタ
春というやつがあまり好きでなくなった、というか嫌いになったのは九年前。それ以来、春になるとそわそわイライラガタガタする。
新学年のクラス替えにドキドキワクワクするようなことはとっくのとうになくなってしまった。
思えばこの春を嫌いになった頃からとんとツキがなくなった。何をしてもどうやっても上手く行かなくなった。
まるでアリジゴクにはまってしまったように抜け出せずにもがき、あがく日々だ。
俗に言うスランプというのか、それにしては長すぎて少しくたびれてしまった。
九年前の今ごろ、僕は東京にいた。あの頃よく歌った長渕剛のとんぼの歌詞を借りるなら、死にたいくらいに憧れた花の都“大東京”だ。
僕は東京で何者かになる夢を抱いた一人の若者で、そして夢が破れて都落ちした今は落ち武者である。
あの頃も今も心の中はグチャグチャだし、やっぱり毎年春になるとそわそわイライラガタガタする。
それでも僕は生き繋いだのだ。それも腐ることなく、ひた向きに、懸命にその時できることできることを繋いできた。
落ちようが何をしようが、僕は一本筋の通った生き方をしてきたと自負している。それが世間的に褒められたものかどうかと言うと、きっと褒められたものではない。なぜそんな意味のない、生産性のない、くだらないことをやり続けるのかと鼻で笑われるようなことしかしていないだろうとも思う。
それはそれでいいと思っている。他人にとって価値のないものでも自分にとってはゆるぎのない価値があるものというのが存在する。人生を変える衝撃を与えてくれた百円の古本は自分にとっては何にも変え難いものだが、他人にとってはゴミ同然だ。僕が必死に繋いできたボヤンとした概念もきっとそういうものだ。
だから思う。多分、時が来たら潮目が変わったら色々なことが上手くいき始めるんだろうなと。
何を馬鹿なと言われそうだが、以前はなんとなくの予感だったが今は確信めいたものがある。色々なるようになるんだろうなあと。
その時が楽しみなのだが、土の中のセミのような日々を送る今が退屈でつまらなくて、でも爽やかで愛しくて尊い。
まだまだこの尊くて愛しくて爽やかで、でもつまらない退屈の中にいたい。
今日もありがとう。
志紀
おはようございます、こんにちは、こんばんは。 あなたの逢坂です。 あなたのお気持ち、ありがたく頂戴いたします(#^.^#)