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理想の娘像

今でもそうかもしれないが、地方の田舎に行けば皇室が大好きなお年寄りが一定層いる。

私の実家もバリバリそんな家だった。
祖母が熱狂的な美智子さまファン、母は雅子さまファンだ。皇室系のテレビが始まると皆でそれをみる。お正月は皆で一般参賀を見る。
カレンダーはいつの時代も皇室のカレンダーが掛けられていた(現在も)。それにプラスしてイギリス王室も大好きだった。

小学6年生くらいになると、オシャレに目覚めた私は、いつも膝より下の何とも言えないチェック柄のスカートや、フリルがたくさんついたブラウスやハイソックスが気に入らなかった。

母はまるで私を着せ替え人形みたいに、私の趣味と真逆の服を着せては連れて出かけるのも、恥ずかしくなってきた年頃だった。

ピアノの発表会はいつも母がミシンで塗ったドレッシーなワンピースにローファー、時にオーガンジーがふんわりかかっていたり様々であったが、ピアノの発表会というものは基本的にフォーマルな服装が好ましいので、そこは何とも思わなかった。

当時の習い事はピアノと週2回の公文、新体操に通っていた。母はクラシックバレエをさせたかったらしいが、ピアノとの両立が難しいと人から聞いて新体操を習わせたらしい。

新体操部でドンくさかった私は上級生の〝お姉さま方”から徹底的にいじめられて小4で辞めた。後で考えると自分でも吹き出すくらいおかしいのだが、ピンク色のレオタードの前後がイマイチ分からず、1人だけ逆に履いて皆と一緒にレッスンを受けていた。
要するに後ろがハイレグ(死語)になり半ケツ状態、前から見るとちょうちんブルマのようになっていたのだ。
迎えに来た母がそれを見て激怒するのだが、なんで先生もそこに居るみんなも『前後逆に履いてるよ』と教えてくれなかったんだろう…。私を見てクスクス笑い何やらヒソヒソ話をしている。
今日は嫌な事がなかったな〜とごくたまに思う日があり、そんなある日のこと忘れもしない最後の整理体操をしていた時の事だ。

『プッ』と周りに聞こえる大きさのおならをしてしまった。今日はいじめられなかったからいい日だったと、気が緩んだのかもしれない。皆が冷ややかな目で私を見て、またクスクス笑われた。
もう恥ずかしくて恥ずかしくて、母に車の中でもう嫌だ、辞めたい!と泣きながら話すと翌週から通わなくてよくなった。
ピンク色のレオタードと新体操で使う赤いボールにフラフープ、真っ赤なリボンとバトンだけが家に残った。
この“新体操を辞めた理由が自分のおなら事件”は後から笑い話のひとつになり、皆も腹を抱えて笑ってくれた。

以前にも話したように、母は私に勉強はそこそこでいいからとにかくピアノを弾け、漫画もテレビもバカになるからダメ(NHK、教育テレビ、BS除く)、音楽はクラシック音楽かプレスリー、デイビッドボウイのみ、にプラスされたのは、本を読め!だ。本の選択肢は聖書と純文学のみ。

母は本の虫のような人で、学生時代仕送りが切れそうになったら、自分が持っていた本を売っては明日のパンを買っていた。読むのは主に純文学で、当時は3日に一冊読んでいたと聞く。

現在は経済の本からありとあらゆる宗教の本、おかしな陰謀論の本まで幅広くうず高く積み上がり、いつ雪崩がおきて母がそれらの下敷きになってもおかしくないくらいだ。そして母ほど本を読みあさった人間もそう多くないと大人になって感じた。

私が中学生になる頃には、レナがいつでも読めるようにと“世界文学全集”から“古典文学全集”までありとあらゆる本が揃えられた。

母は『本を読まない人はバカだ』が口癖で、当時国語があまり好きではなかった私はそれに抵抗するように本を避け続けた。
唯一、図書室にあった江戸川乱歩にハマり、ドキドキしながら読んだ事だけ覚えている。その後江戸川乱歩はエドガー・アラン•ポーからきているのだと、母かポーの全集を出して来たときは衝撃を受けた。(本の話はまた別の機会にするとしよう)

とにかく禁止事項が多すぎる家で、母の許しなしでは見たいテレビ番組も見れない、ファッションにおいてはミニスカートとデニム(当時はGパンと言われていた)を特に嫌った。Gパンなんて、あれはアメリカの労働者が履くものだ、女子が履くものではないと言っていた。時たまクラシックのコンサートにGパンを履いてきている人を見ては軽蔑していた。

ある時『お母さんはね、あなたにこんな風になってほしいのよ』とテレビに出てきたある人物を見ながら言われた。言葉にするのも畏れ多くて恥ずかしいのだが、それは何と『紀宮さま』であった。現天皇陛下の妹、通称“さーや”と呼ばれていたお方だ。それを大真面目な顔をして私に言う。

『ウチの母親もとうとう気が触れたか…』と呆れていた私に、『将来は音大に行くか学習院に行きなさい、あんたはバカだから学習院の短大を目指すくらいでちょうどいい』と言われて困ってしまった。困った…はて困った。(語弊が生じるといけないので断っておくが、当時の学習院の短期大学もそこそこ難しい、現在は廃止され統合されている)

だが母のそのひと言で、これまで不思議に思っていた我が家の教育方針が(というほどの物でもないが)やっと腑に落ちた。

その頃の紀宮さま(黒田清子さん)はまだ独身で、いつもおかっぱ頭にジャケット、膝下丈のフレアスカートといったとても大人しく慎ましい装いをされていた。
母は自分にはインコのようなカラフルなスーツを購入しては『どう?ダイアナ妃みたいでしょ』とか『サッチャー首相みたいだわ』とか『雅子さまのファッションを参考にするべきよ』『目指すは皇室ファッションなのよ』なんて事を言っていた。

ヤバい…本当にこの人の頭はヤバい、だから私にこんな野暮ったい膝下丈のスカートばっかり履かせるんだ、ダサすぎるし嫌すぎる、どうしよう。やっぱりとんでもない家に生まれてしまった、とんだ勘違い野郎だ、友だちにも恥ずかしくて言えない、、、。
要するに母は俗に言う『皇室かぶれ』だった。

私は心の中でいつも思っていた。何が皇室だ、何がロイヤルだ、本物の皇族やロイヤルな人たちは家で暴力なんてふるわれていないだろう、血だらけのタオルなんて見たことも聞いたこともないだろう、自分たちが私やおばあちゃんに何をしているか、考えろ!

母の理想の娘像は紀宮さまであったが、大人になるにつれ、髪を金髪に染めたり日焼けサロンに通ってギャル化した私を見て、あれは私の娘ではないと周囲に漏らしていたそうだ。

母に『レナはいつまでたってもお母さんにとっては小さい頃のまま、お母さんの着せ替え人形なのよ』と言われいつも吐き気がした。
今でもたまにそれを電話で言ってくるのだが、それを言われると私は本気で吐き気をもよおし、頭を掻きむしりそこらにある物を手当たり次第投げては1人で大暴れしてしまう。むず痒くて歯痒くて母が目の前に居たら首を絞めてしまいそうだ。物理的に距離が離れていて本当に良かったと心から思う。

その母のたったひとつの着せ替え人形が、自我に目覚め、自らの意思で厚底ブーツを履いた金髪のバービー人形のような出立ちになったり、母や祖母の1番嫌いな飲み屋の女のような風貌に変化したり、時には男たちの人形になったりしていく過程をこれから話していこう。


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