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Boy Meets Girl

中3になると家での“規則″(※理想の娘像参照)が少しだけ緩められた。

というのも母が買ってくる洋服を全く着なくなったからだ。母の好みは膝下15cmくらいの変な花柄やダサいチェックの地味なスカートにフリルのブラウス、私はミニスカートやGパン、当時中学生の間で流行っていたいわゆる“ブランド物″の服、クレージュやELLE、ベネトン、モスキーノが好きだった。
隣町のデパートに少しだけあるが、その近所のセレクトショップでおばあちゃんに全て買ってもらっていた。
盆暮れに帰省する優しい叔父叔母は、いつも都会のデパートにしかない垢抜けた洋服やバックをお土産として買ってきてくれる。田舎の中学でそれらを身につけている者はほとんどいなかった。

私の通う中学は学校指定のカバン以外は自由だった。ジャージやお弁当を入れるサブバックは何でもOK、冬は寒いので制服の下にトレーナーを着るのだが、それも何でもOK、指定のジャージはなく、好きなジャージでOK(ただし、部活の種類によって顧問が指定していた部もある)ソックスは白のワンポイントまでなら何でもOK、スニーカーも真っ白なら何でもOK、今思い返せば割と自由な校風だった。
なので皆そこでオシャレをするのだ。
男子はスポーツブランドを愛用する者が多く、adidasや NIKE、Jリーグのチーム名が入ったものや、バスケ部男子は自分の好きなNBAのチーム名の入ったリュックなんかを持っていた。もちろんノーブランドの者もいる。
女子はテニス部を中心にエレッセを持っている子が多く、スニーカーはReebokが流行っていた。もちろんそんな物に興味を持たない人もたくさんいる。お母さんが買ってきました系のトレーナーを着る子も居れば、いわゆるオタク系の女子はキャラクター物のサブバックやトレーナーを身につけていた。
叔母の帰省時、もらった最新のELLEやベネトンのバックを学校用と友だちと遊ぶ時用に分けていた。だが、テニス部の女子が身につけているエレッセのグッズがどうしても欲しかった私は、テニスをしないので買えるものがトレーナーくらいしかなかった。おばあちゃんにおねだりして15,000円もするトレーナーをスポーツ用品店で買ってもらい、裏起毛で暖かく、薄いパステルグリーンの色合いをとても気に入り愛用した。

小学生の頃から、“安定した日常生活″の代わりに好きな物を買い与える事で祖父母も母も、レナに惨めな思いをさせてないと思い込んでいたようだ。

筆箱もフカフカのキャラクター物から当時好きだったJリーグのヴェルディ川崎のロゴ入りの物まで、週替わりにいれかえ、白のソックスもブランド物のワンポイントが入ったものを毎日あれこれ履きかえて自分なりのオシャレを楽しんでいた。

当然、それをおもしろく思わない女子もたくさん居て、『レナちゃんはいっつもブランド物ばっかり持ってる』と聞こえるように言う者もいれば、ただジーッと睨んでくる者、新しいサブバックをとりあげて中の作りを“検品″して『どこで買ったの?』と毎回聞いてくる者もいた。

『東京の叔母ちゃんが買ってきてくれた』と答えると、フンと口を聞かなくなったり、明らかに睨まれなりとまぁ色々あったが、後で考えると私も私で結構嫌なヤツだったと思う。


“欲しいものは大抵何でも買ってもらえる″と思い、新しい物ばかり身につけて学校へ行っては、オシャレなトリプルゆうちゃん友だちやアケミ、部活が一緒の女友だち、男子とばかり仲良くしていた。

私からすれば“毎日きちんとお母さんが作ってくれたお弁当″を持ち、暴力沙汰のない平和な家庭で暮らしている人の方がよっぽど羨ましかった。

珍しく給食のない中学で、皆毎日“お母さんが作ってくれたお弁当″を持参するか、購買でパンを買う。母はずっと働いて朝はバタバタと忙しいので、私が朝起きるとレンチンされたおかずだけがテーブルの上に置かれていた。朝食は菓子パンと自分で紅茶を沸かして飲む。
お弁当は自分でご飯とおかずを適当に詰めて持って行けスタイルで、それがない日は500円母からもらい購買でパンを買う。週の半分は“パンの日″だった。
同級生は自由に現金を持ち、パンを買う私を羨ましがり、私は皆が持参している色とりどりのきちんとしたお弁当を見ては羨ましく思った。ないものねだりだ。

母は8時に出社なのに7時50分スレスレに家を出ていくタイプの人間で、私も見事にそれに似た。
母が出社して家を出たあと、ドレッサーの上に置いてある化粧品を物色し、クレドポーのファンデーションを軽く塗ると、ニキビ肌の自分の顔が少しだけマシに見える事を覚えた。もうアベンヌのルースパウダーでは誤魔化せない、ファンデーションを覚えた私は毎朝母のクレドポーを顔に塗り、8×4のスプレーを頭から香水代わりに吹きかけ、髪はストレート用のムースをつけて真っすぐにのばしてからいざ登校!である。制服の中にいつも入っていた香りつきリップクリームも、だんだん色味がほんのりつくリップクリームに変化し、今日はピンク系、今日はアプリコット系、など中3の割には完全に色気づいていた。

聴く音楽の種類も前はクラシック音楽オンリーだったが、当時流行っていたJ-popくらいなら良いと許可された。ただ相変わらずHEY!HEY!HEY!やミュージックステーションを見るのは禁止、ドラマも漫画も禁止のままだった。購入するCDの“検閲″は時々入った。
どうやら母はCDのカバージャケットだけを見て、良いか悪いか判断していたようだ。


母はやる事だけキッチリやれという主義で、そこそこ勉強して家事労働をこなし、ピアノさえ弾いていれば文句は言わないというより、ふし穴だった。肝心なところが全く見えていない。

夜になると母がプレスリーを見ながらワインを飲み出す、しばらくするとそのまま和室の布団の上に転がって朝まで起きない。母が複雑骨折した時のフランスベットは私の物になっていた。母が寝た事を確認すると電気を消し、台所から向こうの2部屋と私の部屋を完全に区切るガラス戸をピシャリと閉める。


よし、これでOKだ。
私の部屋には小さいがCDプレイヤーも電話の子機もある。母が完全に寝てからがやっとフリータイムだ。trfのCDをかけながら、半透明のピンクのマニキュアを塗ったり“エルティーン″、野球部の男子からたまに借りたエロ本を取り出し、隅から隅までじっくり読む。


先日前の席の石井が男子のオナニーのやり方を披露してくれたこと、大木くんに美術室に『お前エロいよな、ヤリてぇな』と言われた事を思い出す。

その当時、テレクラと援助交際が社会問題になる少し前だった。D組の◯◯ちゃんがテレクラで男と会ってるって聞いたけど、どんな人がいるんだろう?
エロ本の広告にある“女性はコチラ″と書かれたフリーダイヤルの電話番号に、深夜電話の子機からそっとかけてみた。
42歳と名乗る男が出た、私は14歳で中学生である事を告げると
『かわいいね、今からコッソリ家から出れない?お小遣いあげるよ、会おうよ』と男はしつこく言ってくる。私は鍵も持ってるし、母は熟睡しているし、出れない事はない。
だが待てよ、このオッサンが気持ち悪い人で、車でどこかに連れ去られたらどうしよう、そもそもこの時間帯にテレクラで電話している42歳ってヤバくない?と冷静になり、電話をプツリと切った。
そんな電話を気が向いた夜、自分の部屋からそっとテレクラに何度もかけた。20代と名乗る男も居た。
『ねぇ、中学生なんでしょ?自分でオッパイ触ってみてよ…どう?気持ちいい?俺も気持ちいいよ…ハァハァ…』突然石井が披露してくれた男のオナニーのやり方を思い出し、気持ち悪くなった私は電話をブチッと切った。オェ、吐きそう!

でも私の周りの女友達は“処女卒業組″が半数以上だ。みんな同級生の男子と、どこでしてるんだろう?気持ち悪くないのかな、あ!でも好きな彼氏なら気持ち悪くないんだろうな…。

実家で自分の荷物を整理していた時、Pクマの日記帳が出てきた、読むと中3の時の日記だった。
「今日はミッちゃんと目が合った。ラッキー♡ミッちゃんは正代ちゃんとつきあってるけど、ミッちゃんになら私の1番大切なアレをあげてもいい、それくらい好きだ」

自分で読んで吹き出した。アレって何だよ!アレって処女の事だろう、当時の私はミッちゃんになら処女を捧げてもいいと書いているではないか!別に求められてもないのに…何様発言だ…

おかしくて仕方がない。

trfを聴くと中3の夏を思い出す。家庭内は最悪だったけれど、色気づいた女友だちと色気づいた自分と、男子とのアレコレも楽しかったなぁ。

部活の顧問の山根先生が言っていた。
『中学には中学の、高校には高校の、大学には大学の別の種類の楽しさがある』
本当にその通りだった。その言葉は今でもずっと忘れていない。



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