見出し画像

私を 想って 第四話

 マリーさんだ!
 いや、正確な名前は知らない。私と父は、その植物をずっとマリーさんと呼んでいた。亡くなった母が大好きだった植物だと父が言っていたことを覚えている。

 マリーさんは借家の軒下に生えていて、父が仕事に出かけるときは毎回、「お守りになるから」と、まだ柔らかい先の部分を摘んでは、ポケットに入れて持って行っていった。

 マリーさんに近寄って、父がしていたように柔らかい部分を摘む。清涼感のある香りが広がり同時に、懐かしい気持ちになる。

「どうして、この植物はマリーっていうの?」
「まだ小さい鞠毛が『マリーさん』って呼んでいたからだよ。そうしたら鞠毛のお母さんが『鞠毛のマリーさんだね』って言ったんだ。それから、この植物の名前は、我が家ではマリーさんになったんだよ」

 幼い頃聞いた父の話に納得して、マリーさんはマリーさんだからと、それ以後、調べることもしなかった。
 外国では、お守りとして車に載せることがあるからと、トラック運転手である父のために、母が買ってきて植えたのが始まりだとも聞いた。

 たまに水をあげるだけで、特に世話をしないままだった。それでもマリーさんは健気にずっと元気に育っていて、たまに古くなった茎が木のように硬くなり枯れたこともあったが、そのころには、別の茎が勢いよく伸びていた。
 そうか、マリーさんはハーブだったから、手入れをしなくても大丈夫だったんだ。
 ここに越してくる前に、父がマリーさんの芽を摘んで、植木鉢に何本か差した。その中の三本は根付いたらしく、すくすくと育っていった。
 父はその鉢を、この家に持ってきて玄関の脇に置いていた。今でも仕事に出かけるときには、柔らかい先の部分を摘んで、ポケットに入れているはずだ。

 そうか、頭のどこかで母が父を守ってくれている。そう思っていたから、父は必ず帰ってくると信じて疑うことさえなかったんだ。
 どうして、こんな大切なことを忘れてしまっていたのだろう。

「鞠毛さんは、ローズマリーが気に入ったのかな?」
 気がついたら、涼花さんが側に来ていた
「ごめんなさい、ちょっと考え事をしてまして……」
「いいのよ。急いでやらなくちゃいけない仕事じゃないし。それよりハーブの香りを楽しんだり、自然の息吹を感じたりすることの方が、とっても大切だと思っているから」
「このハーブ、ローズマリーって言うんですか?」
「そうよ。聞いたことあるかしら」

 マリーさんの本当の名前はローズマリー。
 もしかして、母が教えてくれた名前をまだ上手くしゃべれない私が、マリーと言ったのだとしたら。
『これはね、ローズマリーっていうのよ。ローズマリーさん』
『……マリーさん』
 だから、鞠毛のマリーさん。
 私と母の間に、そんな会話があったのかもしれない。
 しかし私には、母の記憶はなかった。三歳の自分がどの程度会話ができたのかも分からない。でも、母と私の間にそんな会話があったとしたら。なんだか胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
 これは、記憶にない母への私の勝手な願望なのだろうか。
 心が震えるような懐かしく優しい香りがしたような気がした。
「ローズマリーには、若返りの効果もあるから、魔女のハーブ、なんていう人もいるわね」
「え? 魔女?」
 涼花さんの言葉を聞いて、突然私の中で一つの記憶が弾けるように浮かび上がってきた。

 小学校のとき、父の部屋で見つけた一冊の本。家族が互いに思いやりながら、事件を解決するお話しだった。その中に、ハーブが登場していた。
 好きな話しで何度も読み返していたが、なんとなく、読んだことが父にばれてはいけない気がして、そっと元に戻しておいた。
 あるとき、その本は父の部屋から消えていた。
 あの頃好きだったあの本。おおまかな内容は覚えているけど、細かい所は忘れてしまった。しかも、タイトルはなんだったのか。それさえも、思い出せなかった。

「魔女って言っても、怪しいハーブとかじゃないからね」
 魔女という言葉を聞いて、私が驚き怪しんだと思ったのだろう。涼花さんが慌てて付け足した。
「えっと……」
「心配しなくても大丈夫よ。違法ハーブとか絶対手を出したりしないから。それよりも、そろそろお昼だし、帰りましょう」

 涼花さんは、私が言葉に詰まったのを、勘違いしたようだ。この話しはおしまいっとばかりに、手慣れた手つきで片付けを始めたので急いで一緒に片付けをした。何かまずいこと言ったかな。人と接したり話すことが苦手だから、相手の気持ちがわからずに気持ちが落ち着かなくなって、そわそわしてしまうのはいつかなくなるのだろうか。
 ネコに荷物をどんどん乗せる。私のモヤモヤした気持ちも荷物と一緒に乗せてしまいたい。

 昼食のあと、せっかくだからと、篤人が持ってきた西瓜を食べることになった。西瓜は楕円型をしていて形が良くないから、味見用ってことなのだろう。
「この西瓜、腐ってますよ。色が赤くないです」
 西瓜の切り口は黄色に染まっていて、小さな頃一度だけ近所のお祭りで買ってもらったレモンかき氷のシロップの色をしていた。
「これは、黄色い西瓜なのよ」
「西瓜って、赤じゃないんですか?」
「黄色い西瓜は初めて? 黄色くても美味しいよ」
 目を丸くする私に、涼花さんが笑いながら教えてくれた。食べると、確かに西瓜だった。西瓜は黄色だし、キュウリはトゲがある。田舎の暮らしは、驚きにあふれていた。

 午後もハーブ畑の手伝いをして、今日はいっぱい働いたぞ、と身体中の細胞が言っているように筋肉がきしんだ。体は疲れていたが心は充実感でいっぱいだった。夕方帰るときに、私は篤人の家に寄った。昼間言っていた西瓜を受け取るために。
 篤人の家の裏側はすぐに山になっていてまるで、山を背負っているように見える。
 広い庭に、農機具が詰め込まれた小屋があり、軽トラックが止められている車庫の二階は、物置として使われているみたいだ。
 玄関に出てきたのは篤人のお母さんで、篤人は川の向こうへ使いに出ていて留守だった。
 篤人のお母さんは、綺麗な人でこの村には似合わない匂いがして、すごく若く見えた。前に一度会った篤人のお父さんも、とても若く見えた。確実に父よりは十歳以上若いと思う。篤人には歳の離れた弟と妹がいたが、それも分かる気がした。

 楕円型の西瓜を山のように用意してくれ、それを猫車にのせて帰っている今の自分の姿を想像した。ちょっと前には考えられない景色の中にいるぞ。人生って何が起こるかわからない。そんな風に思いながら、ちょっとだけ口角をあげながら昼間の太陽とは違う優しい日差しの中を、土や石を足もとに感じながら歩き続けた。

 夕食の後片付けをしていると「涼花さんいますか」と、篤人が賑やかにやってきた。ほとんどレギュラーな篤人の訪問にあきれる気持ちも起こらない。でもそれに慣れていいの? よくわからない気持ちで心がごにゃごにゃする。背筋を伸ばし、そっと髪の毛を手で整えた。

 和さんは先に部屋に戻ってテレビでも見ているのだろう。
 涼花さんは、客間に案内しようとしたが、篤人が「おかまいなく。あ、台所でいいんで」と言ったので食卓に麦茶を並べた。

 篤人は、ズボンのポケットから小さなノートを取り出すと、おもむろに切り出した。
「おばさんに聞きたいことがあるんですけど、いいですか」
 は? おばさんって言った!? 涼花さんは、篤人から見たらおばさんに違いない。篤人のお母さんより年齢も上だろう。でも、肌は綺麗だし、スタイルも良い。はかなげな雰囲気を常に漂わせていて、とてもおばさんってイメージじゃなかった。
 その涼花さんをおばさんと呼ぶなんて。思わずムッとした。

「おじさんは、どうしていなくなったんですかね」
 とっさに足が出た。テーブルの下で、篤人のすねを蹴る。
「イテッ、なにするんだよ」
「篤人、身内でもないのに、失礼だと思わないの?」
 なるべく小さな声で言ったが涼花さんに聞こえていると思う。まったく、本当に無神経過ぎる! と視線に思いを込めてにらみつけた。

「大丈夫よ、鞠毛さん」
「でも……」
「いいの。正臣さんが家に戻っていないことについて、隠そうだなんて思ってないから。でも残念ながら、戻らない理由について、話せるようなことは一つもないわ」
「今いる場所についても?」
「心辺りはないわね。お互い、知らない時間の方が長かったし、結婚するからといって、それまでの人生全てを、相手に話すものでもないでしょ? お互い再婚同士だしね」
「二人が出会った場所とか、思い出の場所は、ないんですか」
「私たちが出会ったのは、名古屋のビルよ。最初はそんな予定じゃなかったんだけど、たまたま遺族会の集まりに顔を出してみてね。そしたら、そこに正臣さんがいたの。思い出の場所と言えるような、劇的な場所ではないわ」
「遺族会の集まりって、なんですか」
「癌で身近な人を亡くした人達の集まりよ。当事者にとっては、すごくデリケートな問題だから、基本は会員制なんだけど、そのときは飛び込み参加もOKな会だったの。前の夫が癌で亡くなったことは、篤人君も知っているでしょう?」

 その後も篤人の遠慮ない質問は一時間ほど続き、涼花さんは困った顔もせず、淡々と質問に答えていた。

「ありがとうございました。参考になりました」
 帰って行く篤人に何か文句を言いたかったけれど、声は出なかった。
 自分の気持ちを言葉にするのは今も難しい。
 篤人が帰ったあと、涼花さんに謝った。父の事で迷惑かけてごめんなさい、と。
「いいのよ。鞠毛さんは家族なんだから。それに今夜話したことなら、この辺りに住んでいる人なら、みんな知っているような内容だもの。気にしないでね」

 そうは言っても、前の旦那さん、仁史さんとの間にできた子が流産したことを話すときは、本当につらそうだった。心の傷はまだ癒えていないのかもしれない。
 どれぐらいつらい経験だったのか。いつか私に好きな人ができて、その子供を身ごもったとしたら……想像してみたけど、よく分からなかった。

 周りの女子は、みんな当たり前に結婚したら子供は何人欲しい、なんて話をする。でも私はそんなことを簡単に口には出せなかった。子供を産む前に、私が結婚するのか、結婚できるのかさえ、想像できない。

 本当に篤人は厚かましくて、デリカシーの欠片もないヤツだと思っているけど、少しだけ篤人のお陰というか、役に立ったこともある。
 私の母が、癌で亡くなったことを知ることができたからだ。父からは、病気で死んだとしか聞かされていなかった。しかも、父が遺族会に参加していたことも初めて知った。
 仁史さんが癌で亡くなっていたことも知らなかった。

 父と涼花さんを結びつけたのが、癌。でも、二人の大切な人を奪ったのも癌。私の母の命を奪ったものでもある。
 癌で亡くなった、と言われても正直なところ戸惑いしか感じていない。癌と闘っている所を知らないからなのか、遠くの出来事のようにしか、今は感じられなかった。時間が経てば、また別の感情が湧いてくるのかもしれない。
 父がどんな気持ちで母を看取ったのか。遺族会に加わっていたのか。
 帰ってきたら母について尋ねてみようかなと、初めて思った。今までは、母のことは聞いてはいけないことだと思い続けてきた。父にとってつらい出来事だったはずだから、それを思い出させるようなことはしてはいけない。  
 そう思ってきた。
 だけど、仁史さんのことを話している涼花さんを見て、その人との思い出を語るのは、つらいことだけじゃないのかもしれないと感じた。死んだ人のことを誰かと語ることができるのは、もしかしたら、慰めにもなっているのかも、と思った。

 それに、今日ハーブ畑で見つけたローズマリーのマリーさん。たぶん今でも父はマリーさんをポケットに入れているはずだ。それは父が母のことを忘れていない証拠になる。そうだとしたら、母について話しを聞くのは、つらい思いをさせるだけじゃない。父にとって慰めにもなるのかもしれない。
 なぜだか強くそう思った。




第一話はこちらから


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?