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私を 想って 第五話

 毎週金曜日から日曜日の三日間は、涼花さんが経営するカフェのオープン日だ。

 朝から出かけて、帰ってくるのは夜遅くになるときが多い。和さんは一人で自分のことはできるとはいえ、一人きりにするのはまずいだろうということで助っ人を頼んでいた。
 隣の地区に住んでいる和さんの妹の妙さんが、家に来て一日世話をしてくれることになっている。「ヘルパーさんに頼まなくても、私も元気だし、姉さんの面倒くらい大丈夫だから」と、妙さんは平日もほぼ毎日のように顔を出してくれて、家に泊まっていくこともあれば、その日に帰ることもある。もともと妙さんの実家だから、私以上にこの家のことは詳しい。私が何かしなくても、勝手にやってくれるので、何もせずにくつろいで過ごせていた。
 最初の頃は何かした方がいいのかと、部屋にいても緊張して落ち着かなかったけれど。
 妙さんも和さんも何も問題なく楽しそうに過ごしていて、さすが姉妹だなぁと少し羨ましく思った。

 日曜日の朝、その妙さんから涼花さんに電話があった。どうやら足首を捻挫してしまったらしい。
「捻挫はね、軽く考えたらダメ。思っている以上にやっかいですから。痛みが引くまでしっかり休んでくださいね。できれば、泰幸さんか良恵さんに病院に連れていってもらってね。うん、こっちのことは大丈夫だから。まずは自分の体をしっかり治すことを一番に考えてね。そうそう。それじゃあ」
 電話を切った涼花さんが困ったようにこちらを向いた。

「聞こえていたと思うけど、妙さんが来られなくなちゃったの。鞠毛さんに今日だけ和さんのお世話をお願いしてもいいかな? お隣の砂山さんにも声かけてみるけど、急なことで本当にごめんね」
 涼花さんは何度も頭をさげ謝っていた。
「え、はい。まかせてください。いつも妙さんのやることは見ていましたから、大丈夫です」
 とは言ったものの、自信があるわけではない。
 確かに妙さんがやっていることを見ていたが、見て知っているからといって、それができるとは限らない。それでも、私がやる以外解決策がなかった。
 誰かの役に立っている。私はこの場所で、必要とされている。そう感じていないと相変わらず不安だったし、涼花さんから役に立たないと思われたくなかった。
 和さんは認知症だけど、その症状は軽い方だって聞いているし、いつも通りなら問題が起こることはない。たまに子供のようになったり、記憶が混乱したりするけど、大丈夫だと思う。

「食事は冷蔵庫に用意してあるのを食べてね。このメモとノートにいろいろ書いてあるから。何かあったら遠慮せず連絡してちょうだいね。すぐ帰ってくるから」
「分かりました。もし何かあったら、連絡します」
 そう言いながら、一人でやりきるんだと、心に決めていた。たった一日だけど、それでも、一人でやりきることができれば、少しは自分に自信が持てるかもしれない。
「ありがとう。いってきます」
「いってらっしゃい」
申し訳なさそうに微笑む涼花さんを見送った。

「まぁちゃん、このお茶、飲まなきゃダメなの?」
「うん。飲んでほしいな」
「このお茶、おいしくないんだよね」

 湯飲みを前にした和さんは、眉を寄せて嫌がっていた。
 『食事の時と、十時と三時にも、必ずこのお茶を薄めて、湯飲み一杯飲ませてください』
 涼花さんのメモには、そう書いてあった。他にも、食事のとき注意することや、薬の飲ませ方。万が一の場合の対処法などが、ノートに細かく書かれている。
 涼花さんは、以前は病院勤務の薬剤師だったから、あれこれ詳しいのだろう。木曜日の夜、篤人が来て涼花さんに質問したなかで知ったことだった。

 和さんの大好きなにんじんとリンゴのゼリーでご機嫌を取りながら、なんとかお茶を一口飲ませた。この調子だと、お茶を全部飲ませることは、できないかもしれない。
 まだ十時なのに、この時点で早くも挫折しそうだ。うなだれた頭を上げる。
 テーブルに向き合って、まじまじと和さんを見つめた。顔にも、手にも、皺が刻まれている。乾いた肌は作り物のようだ。以前のように、お年寄りに対する恐怖感は、もうなくなっていた。
 それにしても不思議だった。
 こんなにたくさんの皺はどうやってできたのだろう。空気が抜けて風船がしぼむように、体内の水分が失われて縮むと、皺になるのかな。

 他にも気になることはある。
 私を「まぁちゃん」と呼ぶとき、和さんの心はどこに行っているのだろうか。以前は、和さんの方が私より年上なんだと感じていたが、この頃は、私より小さな子になっていると感じることもある。

「ねぇまぁちゃん。あの人、まだこの家にいるのかな?」
 和さんが口をつけていない湯飲みを前に、ため息をついた。
「あの人まだ家にいるのかなぁ? まぁちゃんは、怖くないの? 和ちゃんは、あの人怖いんだよね。だって、仁史はあの女に殺されちゃったんだから」

 え、殺された?

 のんびりした口調から飛び出した物騒な言葉に、私の心臓は飛び跳ねた。
 仁史って和さんの息子の名前で、つまり、涼花さんの前の旦那さんということだ。涼花さんの話しでは、癌で亡くなっている。それが、殺されたって、どういうことだろう。和さんの中で起きている記憶の混濁が、偶然単語を結びつけただけなのかもしれない。

「ねえ和ちゃん、殺されたってどういうこと?」
「仁史が、殺されたってことだよ」
「えっと、誰が、誰に殺されたのかな?」
 ゆっくりと、言い含めるように問いただす。

「あの女だよぉ。いつもニコニコしているけど、本当は怖い女だよ。私のお世話をしながら、仁史だけじゃなく、私のことも殺そうと狙ってるんだよ」
 和さんは、おびえたように、辺りを見回し始めた。

「まぁちゃんは死なないでね。今はお母さんも、まぁちゃんもいるから、和ちゃんは、安心。お母さんも、まぁちゃんも味方だよね」
 キョロキョロしながら、不安げに問いかけてくる。
 いつもニコニコしているあの女って、誰のこと?
 この家にいるのだとしたら、涼花さんだけど、それとも妙さんのことなのかな。さらに心臓の鼓動が速くなっていく。
 和さんは、涼花さんをお母さんと呼んでいるから、あの女は涼花さんではないと思う。でも、和さんの中で、涼花さんとお母さんの区別がついているのかも、分からない。
 何しろ、私のことは「まあちゃん」で、私をしっかり認識しているのかも確かではなかった。

「アレは……アレは……本当に嫌な女だよ!」

 和さんが叫び声とともに突然立ち上がった。思わずよろけてテーブルに腰をぶつける。湯飲みが倒れて転がり中身が食卓の上にぶちまけられた。
 こぼれたお茶からきつい香りが広がり、鼻に奥に突き刺さってきた。

「あんな女、仁史の嫁とは認めないよ! 仁史を殺して、この家の財産を狙っているんだよ!」
 和さんが、歯をむき出しにして、大声で叫んだ。今まで見たことのない表情になり目はつり上がっている。
 ずっと穏やかな姿しか知らなかった和さんの豹変した姿に気が動転した。私は驚きと恐怖で指一つ動かすことができなかった。
「私には、まぁちゃんだけ。私の可愛い、可愛い、お姫様」
 今度は、一転して優しい声になった。表情も柔らかくなっている。動けないままでいた私を、和さんがそっと抱きしめてきた。優しく包み込むような抱擁だった。
 抱きしめられ少し落ち着いたが、和さんの行動のショックと、発言の内容で、頭の中がまだ混乱している。

 仁史の嫁……それは涼花さん? 財産狙いって……。
 どこまで本当なのだろう。いや、本当のことだったら、どうしよう。
 だって、父はここにいない。行方不明なんだから。
 全部が和さんの妄想か、記憶の混濁が影響した発言であって欲しい。そこには、一筋の真実も含まれていないで欲しかった。
 しばらくして、和さんは唐突に私から離れ、
「まぁちゃん、和ちゃんはテレビ見てるね」
 そう言って和さんは自分の部屋に戻っていった。
 和さんの姿が消えると、私は床にへたり込んだ。体の力が上手く入らない。気がつくと、手が小さく震えていた。

「おーい、鞠毛さん、大丈夫ですか」
 場違いな明るい声が聞こえてきた。

 びっくりして振り向くと、障子の向こうから篤人が顔をのぞかせている。
 何をしに来たのか分からない、でもいつも突然の家に来る。震える手にぎゅっと力を込め深呼吸する。篤人は、いつからそこにいたのだろう。

「その、あのな。何て言うか、『あんな女』辺りからハッキリ聞こえていたんだけど、出るに出られなくて。なんか……ゴメン」
 何も言わない私に気を使っているのか叱られた子犬のようにこっちを見ている。篤人にすがり頼りたかったが、その思いをぐっと押し殺した。
 もしここで篤人に寄りかかったら、二度と一人で和さんと向き合えない気がしたからだ。
 まだ今日は始まったばかりなのに。和さんの世話をやりきる自信が薄らぐなんてもんじゃない。正直放り出したくなっていた。
 だけど、ここで放り出したら、私は何者でもなくなってしまう。誰からも必要とされない人間になってしまうんじゃないか。
 そう思うと、篤人に頼ることはできなかった。

「一緒にお昼食べようと思って来たんだ。自分の分はこの通り」
 篤人が、手にしていた紙袋から、キュウリとトウモロコシとおにぎりを取り出した。
 いつもの篤人と変わらない対応に気持ちが救われ、気がつくと手の震えは消えていた。
 なんとか立ち直り、お昼の支度をして、和さんも呼んで三人でお昼を食べた。正直味なんて分からなかったし、これでもし篤人がいなかったら、昼食を食べることができたかどうかもあやしかった。
 さっきのことがあったから、昼食のとき和さんのお茶は、麦茶にした。いつも通り和さんが部屋に戻ると、肩の力が抜けるのが分かった。

 和さんの発言を聞いたからか、篤人は黙って座っている。
 私も、何を言えば良いのか、どう切り出せばいいのか分からなかった。
 沈黙を破ったのは、涼花さんからのメールの着信音だった。

『鞠毛さん、お疲れ様。和さんの様子はどうですか? 変わったことはありませんか? 何かあったら、連絡ください』

 和さんに変わったことは、あった。でも、それを知らせた方がいいのかどうか、判断できない。篤人にも、メールを見せたが、困ったような表情をしているだけだった。

「少し、落ち着いた?」
「……うん」
「とりあえず、夕食まではいるよ」
「ありがとう」 
 それから、なんとか重苦しい空気を払拭しようと、何度か篤人と話しをしたが、すぐに会話は途切れてしまった。午後になり砂山さんが遊びに来て少しだけほっとした。

 結局ぼんやりと午後の時間を過ごし、夕食のときも、和さんのお茶は麦茶にした。そのためか、何事もなく時間が過ぎていった。夕食の片付けが終わるまで篤人は家にいてくれたことが、とても心強かった。

 私は、どうしたらいいのか?
 何を信じればいいのだろう?
 もやもやとは違う、心がざわざわと気持ちの悪い音を立てている。
 お風呂を出て、部屋に向かう途中、和さんの部屋からは、いつものようにテレビの音が聞こえてきた。
 涼花さんはまだ帰宅していない。今日はこのまま顔を合わせずに済みそうだ。
 人の気配がするのに、孤独感が増していた。ずっと孤独だったからそんなことは慣れているはずなのに、枕に顔を埋め目を閉じた。




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