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私を 想って  第二話

 トトトと、リズミカルに廊下を歩く音がする。その足音が私の部屋の前で止まると、一瞬のためらいもなく襖が開けられた。
「暑いな、窓あけようぜ」
 篤人はまるで自分の部屋のように入ってきて、私の返事を得ることなく部屋を横切ると窓を大きく開けた。昼間ならあまり手入れのされてない芝生の広場とその向こうにある雑木林が見えただろう。周囲に明かりのない今は、夜の暗闇が広がるばかりだ。

 窓からぬるい風とともに湿った土と蒸れた樹皮の匂いが入り込んできた。生命力を感じる匂いに頭がくらっとする。
 前に住んでいた借家では、窓を開けても排気ガスとすえた生ゴミの匂いしかしなかった。夏はエアコンをつけっぱなしにしていて、窓を開けようと思うことはなかった。
 田舎生活に馴染んできたのか、今はエアコンの涼しい風よりこのぬるい風の方が好きになっていた。

「気持ちいい風だなぁ」
 心のつぶやきを代弁するような篤人の声に、心の中をのぞかれた気になって思わず顔が熱くなる。

「あのさ、勝手に部屋に入るって、どうなのよ」
「なにが?」
 篤人は窓辺によりかかり外を眺めたまま、私の気持ちなどお構いなしだ。

 引っ越してきて驚いたことがいくつかある。
 その一つが、この辺りに住む人たちは、家に鍵をかけないこと。夜寝るときに戸締まりをしない。それどころか外出時でも窓や勝手口はもちろん、玄関の鍵すら掛けないで出かけてしまう。
 だからなのか、勝手に人の家に上がるのも当たり前の習慣になっている。
 前に住んでいた場所では考えられない。
 不安はないのか。そもそも、住民に防犯意識が存在しているのかも疑わしい。
 だから篤人が勝手に部屋に入ってきたことに抗議しても不毛に終わる。相手の中に存在しない価値観は、どうやっても理解してもらえないから。
 それが分かっていても、やはり言わずにはいられない。これはもはや不安や防犯というよりモラルの問題だと思う。

「ここは、私の部屋。つまり女子高生の部屋なんだけど」
「うん、鞠毛の部屋だね」
「その部屋に入るとなったら、ちょっとは気にするでしょ」
「何を?」
「もし、着替えの最中だったらどうしようとか……そういうこと」
「でも着替えてなかったじゃん」
「そいういことじゃなくて」
「じゃ、何が問題なのさ」

 もっと言ってやりたいことはあった。だけど、残念ながら私の語彙力では篤人に納得させることはできそうにない。何より無邪気そのものの篤人の顔を見て、毒気が抜けてしまった。

「……もういい」
「ま、都会の女子は気になることがたくさんあるんだね。それより、おじさん見つかった?」
「まだだよ」
「それじゃ、明日から夏休みだし、本格的に探そうぜ」
「本気だったの? っていうか、私も一緒?」
「もちろん」

 篤人の性格上、私が何を言っても何をしても必ず、私と一緒に父を探そうとする。これは一学期の間同じクラスで授業を受けた結果学んだことだ。
 篤人へのあきらめと、自分への驚きを込めてため息を吐きながら目頭を押さえ色んなことを考える。

 もともと父との会話は少なかった。休みは不規則だし、夜は家にいないことも多い。そのため、父との連絡はもっぱらメモだった。そのうち家に父がいても、メモでやり取りをするようになった。

 学校での会話は少ない。家でしゃべることもない。
 ずっと自分のことを無口な人間だと思ってきた。
 だから自分が今のような会話のやりとりができるとは、考えてもみなかった。
 それもこれも、すべて篤人と出会ったからだ。

「オレ、山中篤人。よろしく」
 転入初日の休み時間、私の机の前に立ち話しかけてきた男子。それが篤人との出会いだった。あの時の爽やかな笑顔は今も忘れていない。
 転校初日から篤人は、私を他のクラスメイトと同じように扱い、「鞠毛ちゃん」と呼び、なれなれしく接してきた。
 騒がず、目立たず、はみ出さず。まずは今日を無事にやり過ごすこと。
 それだけを目標に家を出たことがバカらしくなるほどに、篤人はしつこかった。新しい高校での初日は、無視することの無意味さを知った日でもある。
 さらに翌日からは「鞠毛」と呼び捨てにされた。
 今まで名前を呼ばれるときは、必ずからかいの意味が含まれていた。そのせいか、初めの頃は名前を呼ばれる度に緊張していたが、いつの間にかその緊張も感じなくなっていた。いかにも田舎の悪ガキといった篤人の天真爛漫な態度が、そうさせたのだと思う。

「名前に毛がつくなんて珍しいね」
 篤人は長い間思い悩んできた私の名前に対し、そう言って微笑んだ。今日は晴れてるね! そんな風に私の名前をたいしたことのないように扱ったことに心底びっくりした。
 もちろん、名前に対するコンプレックスは今でも持ち続けている。高校を卒業したら、また元通りに毛と言う文字に振り回されると思う。でも、少なくともこの高校にいる間は名前のことで悩まされることはなさそうだった。
 篤人のそんな態度の影響で、苗字でなく名前で呼ばれることにも慣れてきた。
 地元の顔見知り同士が多いクラスメイト達は、お互いを名前で呼び合っていたし、そんな中で疎外感を感じることなく溶け込めたのは、篤人のお陰だと思っている。

「おじさん、いつからいないんだっけ」
「先月の中旬から」
 父が姿を消してから、一ヶ月が過ぎた。しかし、私にとっては、取りたてて騒ぎ立てるようなことではなかった。仕事で家にいないことが多かったし、父のいない生活の方が当たり前になっていたからだ。
 ところが、篤人にとっては大事件らしい。
「父親が失踪してから一ヶ月か。ついにその謎に迫るときがやってきたな」
 篤人は大げさに失踪なんて言葉を使っているが、実際は家に帰っていないというだけのことだ。
 父からは毎週涼花さんへメールが届いている。一度見せてもらったこともある。

『無事です。終わったら帰ります。それまで待っててください』
 父らしい文面だなと思った。同時に、新婚期間にある再婚相手に送るメールにしては、色気も言葉も足りないなと思った。

「まずは、おじさんが今どこにいるのか。それを突き止めることが肝心だと思うんだ」
 篤人の言う通り、私は父がどこにいるのか知らない。涼花さんも知らないと言っている。
 私がまだ小さい頃は近場の配送トラックに乗っていたが、中学に入る前には長距離のトラックに乗り換えていた。丸々一週間、父が帰ってこないことなど、当たり前だったし、父が日本のどこへ行って、何を運んでいるのか、いちいち確かめたことはなかった。
 つまり、今の状況と大差ないのだ。
 篤人は父が今どこにいるのかが大切だと言うが、私にはそうは思えなかった。
 何をしているのか分からないが、父はそれが終われば戻ってくると言っている。今だって、トラックで全国を走り回っているに違いない。毎日家に帰ってくることが、それほど大切なのだろうか。
 今までと同じく、ただ待っていればいい。そうすれば父は帰ってくるのだから。

「父親失踪の謎を追う。これが小説家としてのオレの輝かしい第一歩になるんだ。この凄い謎を一緒に解き明かそうぜ」
「……ふーん」

 興奮している篤人に、やる気のない返事をする。
 すごい謎、なのかな? 篤人の言う凄さがいまいち分からない。きっとずっとわからないままだと思う。

 今日の昼間、正確には終業式の後、私は篤人から呼び出された。場所は校舎の北の外れにある今は使われていない焼却炉前。
 呼び出された理由に心当たりはなかったが、万が一の場合を考え、期待と不安を同時に抱えて向かった。
 話しがあるのなら、教室ですればいいのに。いつもはどんな些細なこともオープンに話している篤人が人の目を気にしている。少しだけ胸がドキドキした。
 何もかもがオープンなのは悪いことではないと思うけど、それが最良とも思えない。やはり、プライバシーは必要だ。
 そんな、プライバシーという言葉を知らない代表者とも言える篤人に呼び出されたのだ。何かあると考えるのは、当然のことだと思う。
 呼び出し場所に先に来ていた篤人の口から出たのは、失踪した父のことを小説にしてもいいか、ということだった。

「鞠毛には悪いけど、父親失踪って、凄い謎だよ。こんな田舎だと、二度と起きないよ。是非、ノンフィクションミステリーとして、書かせて欲しい。オレは小説を書く。鞠毛は父親がみつかる。これって一石二鳥じゃん!」
 目を輝かせて語る篤人を見て、期待した自分がバカだったとげんなりした。
 こういうことって、人に知られない方がいいと思ったから、呼び出したんだ! と聞いたときには、つっこみどころが多すぎて、どう対応すべきか悩んでしまった。
 まず第一に、父が家に帰っていないことは、村の人間なら誰でも知っていた。
「お父さん、まだ戻ってこないんだって?」
「ええ、まだですね」
 回覧板がまわってくれば、挨拶代わりにこんな会話が交わされるくらいだ。秘密にする意味がない。
 地元民が多数を占めるクラスメイトも当然みんな知っている。
 次に、篤人が小説家になりたがっていることも、教室で知らない者はいない。篤人自身が言いふらしているからだ。よって、これも隠す必要が見当たらない。
 さらに「夏休みに鞠毛のお父さんを探そうと思っている」と先週から言い続けていた。
 再検討してみたが、やはり、人に知られない方が良い要素は発見できなかった。
 そもそも涼花さんも、「しばらく連絡はあまりできないけれど」と父から言われたことを教えてくれた。そのことを伝えたのに篤人は聞く耳を持たなかった。
 客観的に判断すると、篤人の言う『すごい謎』の存在自体、危ぶまれる状況のような気がする。
「……明日から時間のあるときは、一緒に探すよ」
「そうこなくちゃ」
「ってことで、今日はもう帰って」
「どうして?」
「今からお風呂に入る」
「入ってきていいよ。出てくるまで待ってるからさ」
 あきれた。あきれて言葉が出なかった。それ以上に風呂上がりの姿を見られたくなかった。そもそも人付き合いに慣れていないから、篤人との距離感がつかめていない。悪びれる様子もなく篤人はにっこり微笑んでいる。胸の鼓動を隠すように目をそらした。

 お風呂を出たらゆっくりしたいからと、なんとかして篤人を帰し、玄関から出るところまで見届けてやっと落ち着いた。肩の力が抜けたのを感じながら部屋に戻り明日からのことを考える。
 今までの夏休みは、宿題をやっつけて、借りてきたDVDを観て時間をつぶしてきた。今年の夏休みは同じ方法はとれそうにない。この家から、高校生の私が通える距離には、レンタルショップがない。郵送でのレンタルも考えたが、気が乗らなかった。
 明日からの夏休みは、時間をもてあますことは目に見えていたので、今のところ、篤人の気まぐれな思いつきに付き合うくらいしか時間を埋める方法を思いつかなかった。

 廊下を素足で歩いて風呂に向かう。足裏に伝わってくるひんやりとした板の感触が、気持ちいい。夜はエアコンなしで過ごすことができる。それは初めて味わう嬉しい驚きだった。
 涼しいな。
 夏なのにそんな風に思えるのは、今まで住んでいた場所よりもこの家がだいぶ北に位置することや、山に近いからかもしれない。古い作りの平屋だということも関係しているのかも。
 壁が極端に少なく、襖と障子で区切られた部屋を、廊下が繋いでいる。いくつもある部屋は、使われていない部屋の方が多かった。前に住んでいた借家からは考えられないような、贅沢な空間の使い方だ。

 この家を建てたのは、和さんの旦那さんだと聞いている。その旦那さんはずいぶんと前に亡くなっているらしい。
 和さんには息子が一人いただけ。
 この広い空間で暮らす和さんは、何を考えていたのだろう。

 ふと立ち止まって目を閉じ耳をすます。
 お風呂を出た和さんは、部屋でテレビを見ている。涼花さんがパソコンを操作している音が聞こえた。扉を開けなくても、声をかけなくても、誰かがそこにいる。その気配を感じることができる。
 和さんが孤独を感じることは、なかったのかもしれない。
 プライバシーを守らないことが、良い場合もあるのかも。
 ゆっくりと目を開けて風呂場に向かった。

 この家のお風呂は広い。ようやくそのことに慣れてきた。
 汗を流して湯船につかり、足を伸ばす。
 この家で生活し始めた頃は、お風呂が広すぎると感じ背後の空間を意味もなく怖がったりもした。今までの癖で広い湯船に、膝を抱えて入っていたが、いつからか足を伸ばし身体の力を抜くことが出来るようになっていた。
 のびのびと体を広げ、お湯に身を任せる。
 このときだけは、あらゆるものから解放されていると感じられた。まさに幸せのひとときってこういうことなんだなって思う。
 天井を見上げながら涼花さんや和さんも、同じように感じるのだろうかと考えた。
 生まれたときからこの広い湯船しか知らないで育ったとしたら、今の私と同じような幸せを感じることはないのかもしれない。
 和さんはこの家の生まれだと聞いている。涼花さんが生まれ育った家は、どのような家なのだろう。ここと同じような広い家なのか。それとも、私と同じように狭い借家育ちなのだろうか。

 この家で生まれ育った和さん。
 和さんの息子と結婚し、この家に嫁いできた涼花さん。
 その涼花さんと再婚した父。その連れ子である私。
 今ここで生活しているのは、血のつながりのない三人。
 涼花さんは「家族なんだから」と言ったが、私たちは本当に家族なのだろうか。そもそも家族ってどういうものなのだろう。家族ってなに?
 これから先、何年か一緒に暮らしていたら、あるとき急に、私たちは家族なんだって、感じるようになるのかな。

 私にとっての家族は、やはり父だと思う。生まれてからの期間に対し、一緒に過ごした時間は少ない。それでも家族だって思える。私は過ごした時間の多さで、家族かどうかを判断しているわけではないみたいだ。
 今までずっと、多くの時間を一人で過ごしてきた。今は自分以外の誰かが同じ屋根の下にいる。一緒に暮らしている。それを当たり前に受け入れている自分。
 不思議な感じ。

 二人への思いは、やはり父に対するものと同じではない。
 かといって、二人のことが嫌いではない。この生活に不満もない。でも、嬉しさを感じているのではないし、安心とも違う。
 自分の気持ちを表す的確な言葉が思いつかない。もやもやとした気分になる。他人との距離が上手くつかめたのなら、もっと違う感想を抱いていたのだろうか。
 和さんや涼花さんは、私のことを本当に家族だと思っているのか気になった。
 もし二人とも、私のことを家族だと感じていなかったら? 迷惑な存在と思っていたら。
 私と二人を繋いでいるのは父の存在だけだ。万が一、父がこのまま帰ってこなかったら私はどうなるのだろう。
 父が帰ってこないとは思っていない。必ず帰ってくる。
 父へのこの思いは、それは今までもこれからも変わらない。でも、事故などで、命を落としてしまう場合もある。本人が望んでも帰ることができなくなったら……。
 胸の底から冷気が吹き上がってきた。お湯につかっているのに、体が冷たくなっていく。指先がしびれる。
 父が事故に遭うかもしれない。そんなこと今まで一度も考えたことがなかった。どうして考えなかったのだろう。いつだって当たり前に父は私のところへ帰ってくると思っていた。
 風呂場の壁が、天井が遠ざかっていく。それとも、私が縮んでいるのか。
 体が沈みながら浮いている奇妙な浮遊感を感じた。手も足も自分のものでないように。
 鼻の奥に痛みを感じた。
 苦しい! ゴボッと音がしたと思ったら水が鼻に入っていた。手足をばたつかせすぐに湯船の縁にひっかかる。体を支え顔を出す。肺にお湯が入ったかのように苦しい。
 バランスを崩し、おしりが滑って、背中から頭までお湯の中に沈んでしまったらしい。
 咳き込んでいると、脱衣所から「どうしたの? 大丈夫?」と涼花さんの声がした。
「少し滑っただけです。大丈夫です」
「そう、お風呂では寝ないようにね」
 居眠りをしたと勘違いされた。
 呼吸を落ち着かせ、咳き込んでいる間に涼花さんの気配はなくなり、風呂場の壁も天井も元の大きさになっていた。手足のしびれも消えている。胸の底に生じた冷気だけが、小さな欠片になって、チクチクと残っていた。

 急いで風呂を出て手早く服を着た。早足で廊下を歩き、涼花さんの部屋に向かう。
 部屋に涼花さんの姿を見つけて、不安が少し和らぐ。この気持ちってなんだろう。
 考えようとしたけれどなぜか怖くなり思考を止めた。
「大丈夫だった? 疲れがでたのかしら」
「はい、いえ、大丈夫です」
 続く言葉が出てこない。
 何か言わなくちゃ。
 でも、何を言えばいい?
 私は何を言いたいの?
 口の中が渇いていく。
 鼻の奥に、風呂の匂いがつんと蘇った。
「あの……、お風呂、空きました」
 自然と言葉が漏れていた。
「ありがとう。そういえばさっき篤人君来てたわね。仲いいのね」
「そんな、篤人とは、普通……です」
「そう? 篤人君は、どう答えるのかしらね」
 涼花さんが優しく微笑む。
 篤人はなんて答えるんだろう。
 胸の奥にチクリとした感触が走る。黒いトゲが刺さっている場所だ。さっきできた、胸の底の冷たい欠片とは違う深い場所にあるトゲ。
 目をそらしながらお休みなさいと言って涼花さんの部屋をあとにした。

 もし父が戻らなかったら、どうなるのか。
 そのとき私はここにいていいのか。
 聞きたかったことは、怖くて聞けない。
 布団に入ってもいつまでも寝付けなかった。

 明かりを消した部屋の中はまぶたを開けても暗闇で、この先のことを何度も思い浮かべようとしたけど、やはり自分の未来は見えないままだった。




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