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ドラマチックにモラハラな話。

モラハラな話、なんて書いたら、ドキリとされるかもしれない。
いや、オペラの話だ。

今シーズン、「さまよえるオランダ人」がRoyal Opera House (ROH) の演目になったので、昨夜、初めて観てきた。
通常より遅い夜8時からのスタートで2時間半ぶっ通し。切れ目なくスムーズに場面が入れ替わっていく演出も手伝ってか、休憩がないこと自体には辛さを感じなかった。

むしろ2時間半のあいだ終始つらさを感じていたのは、時代とはいえ、いやワーグナーの女性観というべきか、あまりにモラハラな男ばっかりでてくるところだ。

そもそも、死ぬことすら許されず海を漂流し続ける呪いをかけられたオランダ人。その理由は自分自身の強いうぬぼれのせいじゃないか。
俺だったら、みんなが苦心する船旅だって乗り切れるんだ、なんて思いあがって神々を罵ったのが悪いんだし、天使が情けをかけて7年に一度だけ陸に上がれるようしてくれたことだって、感謝こそすれ、「救いを示したのは愚弄じゃないか」というなんてひねくれすぎてるし、感謝のない態度自体間違っている。
過去に出会った乙女たちから永遠の誠実を受けることができず、今なお漂流しているのは、自分に問題があるからじゃないかと内省する様子すらない。時間はいっぱいあったろうに。
そもそも、自分の救済ばかり求めて、乙女たちを、誰かを愛そうという気持ちなんて欠片もない、オレ様。
ああ、自分が働いてるオランダ人も思い浮かんじゃうからか、とにかく不愉快なキャラ。
ちゃんと自分のうぬぼれを最初に反省してほしい。

っていうか、お父さん。
オランダ人が真珠やら宝物やらをばらまいたからって、ホイホイと自分の娘をうぬぼれ強い得体のしれない幽霊に嫁にやると約束するなんて、どういうことなんだ。
娘はあんたの所有物なんかじゃないんだぞ。
久しぶりに港に帰ってきたと思ったら、この男と結婚しろ、式は明日だって、どうかんがえたっておかしいだろ。

そして、エリックくん。
きみがセンタに思いを寄せているのは自由だ。
だけど、自分が好きだからって、どうして彼女も同じように自分を愛しているはずだと思い込むんだ。
貧しい猟師なことを恥じるまえに、だったらどうやって自分が好きな女性を幸せにできるのかを考えなさい。
職場まで乗り込んでいって、お前が好きだーとか歌いだすのなんて、どうかんがえたっておかしいだろ。

そんな、モラハラ男たちに翻弄されて、そもそも伝説の不幸せオトコのことを「もし彼に出会うことがあったら、私の愛で救ってみせるわ」と夢みているセンタちゃん。

どう考えたって、幸せが待っているとは思えないシチュエーションなのだ。

昨夜のROH版では、最後に彼女は崖か投身することもなく、幽霊船が不死のループから脱し、昇天するという最後ではなかった。

でも。
ということは、港町に残ったセンタはこの後どうやって生きていくんだろうと、観終わったあと、思わずにはおれなかった。

小さな町で、ひとびとは「ね、船長んとこのセンタってば、あの幽霊についていくって大見得切ってたくせに、結局は真の愛じゃないとかいわれちゃったんでしょー」とみんなから誹りを受けるんじゃなかろうか。

エリックは「やっぱり俺の愛情が伝わった」とかすっかりいいように思い込んで、ぐらぐらで何が自分の幸せか認識できないセンタをそのまま妻にしてしまうんじゃなかろうか。

そして、お父さん。きっとセンタが実家に帰るたび「あーあ、俺が選んだあのオランダ人にしてたら、お前、金銀パールが山のようだったんだぞ」と酒を飲みながら、きっと愚痴る。いや、ついてったら死んじゃってたんですよ、お父さん。

ああ。なんて、誰も幸せにならない話なんだろう。

え?そういうことじゃない?

まあ、たまにはそんな風に自分流の解釈を勝手にし後日談を妄想しながら、オペラを観るのも悪くないじゃないですか。

これまで、伝統的でわかりやすく、ある意味、愚直に退屈に作られていた印象があったけれど、最近のROHは少し冒険が始まっている気がする。
この前のシャープに現代的な「オテロ」や、最後にカルメンが生き返って高笑いする「カルメン」も、とても面白かった。

以前、友達がベルリン・コーミッシェ・オーパーで指揮するというので、日本からの友達とロンドンからみんなで合流して応援で観劇しに行ったことがある。そのときの「ドン・ジョバンニ」は解釈も衣装も舞台装置も本当に新しくて、ジョコーソとしての真骨頂という演出だった。
ドイツ人って、遊び心なさそうに思えるのに、なんてクリエイティブにもとある脚本を発展させられるんだろうと感心した。

ROHはきっと客層からいって、そういうことが難しいのだとは思う。それもまた個性。客としては、いろんな演出をみることで、あらたな解釈を経験できるのだから。

演出家の新解釈に乗っかって、へえこんなこともできるのかと驚かされるのも、あーだこーだ自分の妄想を広げていくのも、どちらも楽しい。

シェイクスピア劇もそうだけれど、脚本、あるいは歌劇として書かれたものをどう実際のプロダクションにするかというのは、本当に読み手しだいなんだなあと、あらためて思う一夜であった。

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