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映画「ノルマル17歳。-私たちはADHD-」を見た感想

 ADHDをテーマにした作品ということで、障害者の支援の仕事との関連上、興味があって見に行っていたのですが、本当にたまげました。本当に良い映画でした。ADHDの女子高生の二人の演技が素晴らしくて、見ている私も同じように傷ついたり、落ち込んだり、希望の光を見たりすることができました。扱っているテーマも障害者支援に関わっている人だけでなく、私たち皆が考えなければならないようなテーマを含んでいて、予想以上に本当に強く心を動かされる映画でした。私としては、すべての人にお勧めしたい映画です。どんなところが良かったのかお伝えしたいと思います。

 この映画で一番に感じたこと、それは私たちに求められているのは「理解ではなく共感」かもしれないということです。世間ではADHDのことを知識として知って特性などを理解している人も増えてきていますし、この映画でも家族は娘がADHDの診断を受けていて、どういうものかも理解しているのです。なのに、どうしてなのか家族は本人が傷つくことを平気で言って、本人の気持ちに無関心なように見え、共感が全くなされていないかのようなのです。この映画を見ている私たちはADHDである主人公の少女二人に感情移入していますので、厳しい言葉の暴力が何度も何度も浴びせかけられて、主人公と共に深く傷つくことになります。そして、なぜ一番の味方であるはずの家族が共感してくれないのかと怒りと絶望の入り混じった気持ちになるのです。私たちに必要なのは共感なのではないか、このような映画を通して多くの人が共感したり寄り添ったりできるようになれば、もっと良い社会になっていくのではないかと感じました。

 なぜ共感できないのだろうかと考えました。それを阻む要因にはADHDのわかりにくさがあると思いました。ADHDの特性の問題なのか、それとも本人の性格の問題なのか、育て方が問題なのか、そこがわかりにくいという問題です。ADHDという概念がないころは世間ではそういう特性の人はみんな怠惰とか、わがままという、本人の性格の問題として片付けられるか、親の育て方が悪いことが原因だとして片付けられていたのです。そういう世間で育ってきた祖母の世代も、そういう祖母にしつけられてきた母の世代も、その母にしつけられてきた娘の世代も、そんな偏見を簡単に変えることができないのも無理はないのかと思ってしまいます。ADHDの特性なんだと理屈で考えることができても、それが普通にできている人には、なぜできないのかがわからないというのもあります。家族という似たDNAを持つ間柄だと、より一層そう感じるかもしれません。何で自分にできることが、この子にはできないのかが、想像できないというのもあるかもしれません。どこかで子どもが頑張って努力すれば、親が厳しくしつければ、世間並みになれるんじゃないかと考えてしまい、本人の本人らしさや、本人の気持ちというものが置き去りにされてしまうのだと思います。

 見方を変えれば家族だからこその言葉の暴力なのかなとも思ってしまいました。精神科医の斎藤学氏の本の中に「家族とは暴力が唯一合法的に許される装置(ちょっと違うかもしれない?)」というようなことを書かれていたのを思い出しました。親と子という圧倒的な力の差がある上下関係の中で、無理強いしてでも子どもの障害を努力と根性で克服させようとしてしまうのかもしれません。何とか世間並みに普通に学校に行ってほしい、世間並みに普通に良い人生を送ってほしいというような思いは、もちろん娘のためというのもあるのでしょうが、世間からのダメ親のレッテル貼りから逃れることが優先されている場合もあるのかもしれません。

 主人公の二人は出会い、家族や学校の友人から得ることのできなかった、共感を初めて得ることができ、お互いにとっての大切な心のよりどころになり、自分らしく生きることを始めるのです。私も障害者の支援者をしていますが、当事者の方にちゃんと共感できているだろうか、ちゃんと気持ちに寄り添っていれているだろうか、そんなことを考えながら見ました。素晴らしい映画をありがとうございました!是非皆さんも見てください!


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