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ルポ 誰が国語力を殺すのか を読んで 言葉の重要性と社会性について思索する

今回は、家内が聴いてきた、子供の学校の保護者会で先生がおすすめしていた本の書評です。

この本を読む経緯は一度別のnote記事で触れました。

内容的には下記の読書ノートのようにかなり深刻な状況のようです。

この週末にでも長男と感想戦をしてみようと思っていますが、まずその前の復習としてこの記事をアップすることにしました。

では、書籍のメタデータを貼っておきますね。

今回も読書ノートからの書評ですので、小理屈野郎の読書ノート・ローカルルールの凡例を以下に示しておきます。

・;キーワード
→;全文から導き出されること
※;引用(引用の背景で示されていることもあります)
☆;小理屈野郎自身が考えたこと


書名 ルポ 誰が国語力を殺すのか
読書開始日 2022/10/31 11:16
読了日 2022/11/04 18:03

読了後の考察

著書の構成としては、まず現在の日本語の操作能力の低下で様々な問題が起こっていることを確認する。その上で、原因となりそうなものを列挙しそれぞれについて綿密に調べてゆく。その上で、対処を考え出した社会(学校)の例をあげてゆく、という風になっている。

言語のハンドリング能力というのは、思った以上に大事で、個人的な影響はともかく社会的にも影響が出てくる ことが非常によく分かった。
言語の問題は結局格差やその助長・継続にもつながっていたり、社会を不安定化させる要素が非常に強いと考えられた。
これを克服するには個人(家庭レベル)のものと、社会(学校教育)の二手に分かれて対応していく必要がありそう だ。
公立学校はかなり期待薄。私立学校はそれなりの期待をしていい。ただしどちらの学校でも学校がその重要性に気づき、学校あげて対応をすれば克服は可能な可能性は十分ある のではないかと考えた。
読書をしっかりすることも大事 。これはある程度個人で対応できることではないかと考える。ただし周り(特に学校や家庭)フォローが必要。子供たちが本を読みたい、買いたい、といったときは惜しむことなく買い与えること、自分もその本を読んでお互いに感想を述べ合うなどが非常に効果的 であると考えられた。
また鬱病など精神科的疾患が増えている根底には日本語をしっかり使えない、つまり深い思索ができないということも影響しているのではないかと考えた。
もちろん一定以上落ち込むと、どうしても言葉では回復できないところはあるが、ある程度の場合は言語操作能力があれば個人で修復可能であると考える。
自分の場合を考えても、読書をしたり思索をする(note記事を作ることも含め)することによってかなりの精神的安定を得ることができているのではないかと考えている。
常に言葉を大切に、そして自分の言葉を常にブラッシュアップできるようにしていきたい。

キーワードは?(Permanent notes用)

(なるべく少なく、一般の検索で引っかかりにくい言葉、将来もう一度見つけてみたいと考えられる言葉)
#格差
#言語操作能力

概略・購入の経緯は?

日経ビジネス書評に載っていたため購入。その後積ん読になっていたが、次男の学校の先生が勧めていた、ということで掘り出してきて読書開始とした。

本の対象読者は?

格差について興味がある人
日本語について興味のある人

著者の考えはどのようなものか?

日本人の読解力

最近日本人の読解力は低下傾向。
その原因の一つはゆとり教育
ゆとり教育で語彙を覚えるなどのある程度の詰め込み教育を全否定したのも大きな原因 の一つ。
読解力自身はある程度テクニカルなもの だが、その前の段階のところの重大な問題が横たわっていると考える。

日本人にかけている力

一つの物事の前に立ってゆっくりと向き合い、そこから何かを感じ取ったり背景を想像したりして、自分の思考を磨き上げていく力が不足 してきている。要するに思索する力の不足 、というところか。
→世の中は情報があふれており次々と処理しなければならない。取捨選択のところで莫大な時間がかかるようになっており、そのあと取り入れた情報を吟味する時間が極端に減っているのが原因ではないか と考えられる。
日本人はディスカッション能力が低い、といわれるが、これに対して的確な対応を今までの教育現場ではとっていないような気がする。これも大きな問題であろう。日本文化にディスカッションが根付かない、という言い方もされるが、これはディスカッションの真髄を押さえていないからではないか?このあたりの現状認識、そして理解にも一層の努力をすべきでしかるべき検討ができれば、ディスカッション教育もそのうちうまく動くようになってくるのではないかと考える。それにより日本語をハンドリングする能力の底上げができるのではないか?

言語能力の低下

不登校、引きこもり、鬱などの病的状態になったときに、なぜその様なことになったのか、という根本的な原因追及が言葉によって表現することができなくなっている 。おそらくこれは上記の日本語力に影響されているところが大きいのだろう。
また、同時に語彙数の低下 があるので、それも大きな問題であると考える。
言語能力の低下は、最終的には思考停止、という状況に陥らせる 。これを明記しておくべき。

日本と欧米の子育てに関する意識の違い

欧米には子供は国の宝物なのだから、社会全体で育てていこうという空気があります。不適切な育児が行われていることが明らかになれば、即座に介入して社会的養護につなげます(中略)子育てが親の責任といわれるようになったのだ。、そう考えればこの風潮はわずか数十年の間にできた

→☆日本の場合は核家族化していると言うこともあり、子育ての空間に政府や国家がかんでくることを極端に嫌う。プライバシーの理解についても問題がある のだろう。
核家族化を意識していなかった時代のプライバシーの考え方と、核家族化が実現してからのプライバシーの考え方というのは自ずから変わってくるが、その変化に対して社会(認識や法制度)が追いついていない 、という面もあるのではないかと考える。

欧米の教育の主軸

(欧米の場合は、教育)制度で「個性の尊重」が前提とされ、「なすことによって学ぶ」という方針 

→☆日本の場合は社会の秩序を教える、なしてはいけないことを学ぶ 、というのが主軸になっているのではないか?

社会の変化

SNSなどで子供たちが避難するところがなくなっている 。常に生活は学校生活の延長になっている。

ゲーム中毒の子供たちについて考える

なぜゲーム中毒になっているか、その理由を考えることが大事 。中毒から解毒させることも重要だが、それ以上にその原因を考えることが必要。
おそらくSNSなどで自分だけの空間というのが極めて小さくなっており、社会から一旦逃れられるシェルターのようなものがなくなっているのが原因ではないか と考える。
ゲーム以外の居場所を作ってやれるかどうか が大事なこと。

哲学対話

→言語教育の一つとして取り入れられている学校もある。
→現在の流れとしてはAO入試が増えているので、手っ取り早くノウハウを覚えて、それらしい正解を出すことが注目されている
そこまでいい加減な試験方法だとは思わなかった。まあ、確かにAO入試は単なるハッタリ競争みたいなところがある 、と思っていたがやはりその様になっているのだろう。そういう意味では、学力による入学考査がある意味一番公平、という考え方も十分できるのではないか と考えた。

目指すのは、中学生という若い年代の子供たちに他者と対話し、折り合う力を養わせる(中略)世界でいち早く「分断」や「行き過ぎた資本主義」が社会問題になっていた地域でこそ、それを解決する手段として哲学対話が用いられてきた(中略)意義を訊いたとき、口をそろえたのが「先入観(固定観念)を払拭できる」だった。

→類する教育法としては、エンパシー(他社の感情や経験を理解する能力)教育、シティズンシップ(市民性)教育 など。

その考えにどのような印象を持ったか?

言葉の持つ有用性、力強さ、そしてそれをないがしろにすることによる結果の怖さについて理解できた。
個人としてできる対策をしっかりすることが第一義。その上で社会が対応できることに対応していく、というのが大事なことではないかと考えた。

印象に残ったフレーズやセンテンスは何か?

学校は子供たちに語彙力をつけさせて、考える力や表現する力を養わせるところです。教科で言えば国語がそれを担うことになっている。でも、今の国語の授業は教科書を終わらせるのが精一杯で、深いレベルで彼らが必要とする力を養えていません。

→☆結局情報量が多すぎる と言うこと。一部の私立中学などでは1冊の文庫本を1学期、もしくは1年かけて精読する、ということをしている。更に国語科だけではなく社会科などとも連携をとり、真の意味での総合学習ともいえるべき状態を作っている。
このようなことは特に法令遵守の公立学校ではまずできないことだろう。
他の教科でも進行度を非常に気にしているのでそれに乗れない子供たちは常に落ちこぼれていく。

一般的には12歳ぐらいまでに約2万語を習得。日常生活で主に使うのは3,000語。新聞で一年に使用される言葉が約3万、頻出するのが1万5,000。

情緒力とは、他社や自然から美しさ、悲しみ、もののあわれを感じ取り、理解する能力。想像力は未知のものをイメージしたり、他者の表情や動きから言外の感情を読み取ったりする。

→☆個人的によく使っている言葉「思索」にはこのようなことも含まれていると考えた。

語彙はあっても、情緒力、想像力、理論的思考が未発達な子供もいる。彼らはたくさんの言葉を使ってペラペラと話すが、深いレベルで物事を考えていないので、内容が伴っていないばかりか、整合性がとれとらず、首をかしげたくなるようなことを平気で口にする。

→☆いわゆるアスペルガー的な人たちはこのようになるのではないかと考える。

かつての不良少年は虐待、差別、貧困といったことで家庭や学校に居場所を見つけら得なくなったものたちだった。彼らは、暴走族のような不良グループに属することによって代わりの居場所を手に入れた。そこで現実逃避のためにシンナーを吸ったり、自分の存在証明のために暴力を振るったりすることで少年院に送致された。(中略)現に少年院に収容されているのは、そうした一時代前の不良とは異なる。様々な要因によって居場所を失うところまではおなじだが、今の子供たちは、不良グループではなくネットやアニメなどの二次元の世界に居場所を見いだす。(中略)その歩の側面が引きこもり、ゲーム依存心身の不調につながる

(不幸な環境で育った少年は)厳しい現実に向き合い、言葉によって気持ちを深く掘り下げていくことはつらいことなので、向き合おうとしない。(中略)考えれば考えるほど苦しむことになる。だから自己分析がとても下手。

→☆まさに負の悪循環、というところだろう。

コミュニケーションをとるとき、自分の言葉が正確に伝わっていると信じ込むのは危険だ。逆に相手が理解できていないという前提に立って、どういう表現なら伝わるかを常に考えてしゃべらなければならない。

→☆普段コミュニケーションをとるときに漫然ととっているが、いざうまくいかなさそうなときはこのような回路で考え直す必要がある、ということを端的に表現していると思われる。

類書との違いはどこか

社会の分断について言語面から詳説しているところ

関連する情報は何かあるか

小中学校の国語に関わる新しい取り組みについて

キーワードは?(読書ノート用)

(1~2個と少なめで。もう一度見つけたい、検索して引っかかりにくい言葉を考える)
#哲学
#教育

まとめ

社会の分断についてはSNSの面から考えることである程度理解できたか、と思っていたがいろいろな要素が複合的に合わさって起こっていることをまざまざと見せつけられたのが本書。
SNSで使っている言語、つまり言葉もかなり大きな問題になっているのだ、ということが容易に理解できた。
海外でも分断が起こっているのだろうが、おそらく言語操作能力の欠如による、というところも日本同様大きいのではないかと推測させられた。


今回の読書ノートは長男との感想戦も意識してなるべく引用を少なくして内容をまとめる形にしました。
ちょっと全体の流れが分かりにくくなるかも知れないな 、と思われます。
このあたり、難しいですね。引用を多くすると自分の言葉が減ってきて思索する余地が減ってしまうような気もするけど、他の人が見たら流れがよく分かるように見えるのではないかなと思います。
逆に引用を少なくすると自分の言葉が増えて思索した言葉が増えてきます。純粋な内容からは逸脱することも多分にあるのではないかと思います。しかし自分の目から見ると非常にたくさんのことを詰め込めるようにも感じます。

著書にも依りますが、思索を多くしたいときはなるべく自分の言葉で読書ノートをまとめ引用を純粋な引用だけにする、そして思索はそれほど必要ない(資料的価値の高い著書など)の場合は、引用を多めにして、それに対する感想を書いていく、というのがスタイルになってきそうです。

小理屈野郎にとっての読書ノートの真髄は、(読者の皆様には失礼な表現になるかも知れませんが)著書を読んだ小理屈野郎が自分の血肉にすること、ですので多少読みにくいかも知れません。

しばらく書評のスタイルに悩みそうです。

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