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極夜行前 を読んで 冒険と哲学の関係を思索する(1)

今回も続けて書評をアップします。
今回は2冊が関連している著作でその前作を紹介したいと思います。

北極や南極では一日中太陽が出ているときもありますが、一日中暗闇に閉ざされる時期もあります。完全に暗闇に閉ざされる時期を「極夜」といい、この時期に極夜が起こっている地域を探索すると言う冒険を著者は思いつきます。
その思いつきなのですが、単に、暗いところで周りが見えないけど探検頑張りました、的な話ではなく哲学的にしっかりと思索をしてこの行動を起こそうということになっています。
ここが素敵なところの一つです。
そして、分からないことだらけなので、準備に数年の時間をかけ、「極夜行」を達成するのですが、その準備をしている部分が著作になっているものです。

読者の皆さんもちょっと興味が出てきたかも知れませんね。

では、書籍のメタデータを貼っておきますね。

今回も読書ノートからの書評ですので、小理屈野郎の読書ノート・ローカルルールの凡例を以下に示しておきます。

・;キーワード
→;全文から導き出されること
※;引用
☆;小理屈野郎自身が考えたこと


書名 極夜行前
読書開始日 2022/05/19 21:25
読了日 2022/05/22 16:05

読了後の考察

すでに読んだ「極夜行」を行うための準備を綴った著書。
極夜行には、今までの冒険家としての人生をかけた集大成として望んでいる ということが文章の端々から理解できる。
そんな準備行(偵察行)で問題が噴出する。
著者のことだからかなり綿密に計画は立てているにもかかわらず、不運としか思えない事が次々と起こる。
デポ(探検行動などの道中に事前に食料や燃料などの補給物を置いておくところのこと)を作成するのだが、以前に作成したものがなくなっていたり、英国の探検隊が使わなかったデポを使わせてもらうことになってみてみたら、シロクマに食い荒らされていたり、ドッグフードは現地の若い者に使われていたり…
さらに、自分たちがデポを運搬するときに海豹に襲われかけて九死に一生、という感じにもなった。
さらに、滞在許可の書類の不備(ちょうどその時はカヌーでのデポ作成行に出ていた)が原因で、国外退去、1年間の入国禁止を言い渡されてしまう。
これだけのことがあった後での「極夜行」だったから、当該著書での極夜での情景の描写などが非常に素晴らしかった のではないかと思えた。
グリーンランドから1年間国外退去するところでこの著書は終わっているが、これだけ読んでいると、本当に「極夜行」出来るかな、と心配になってしまう。
そういう気持ちで「極夜行」を読むのは非常に面白いかも知れない。

先に「極夜行」だけを知ったため、書かれた順に読んだ方が良かったのかも知れない 。しかし逆順でも十分楽しめたと考えた。

概略・購入の経緯は?

「極夜行」を読んでみた。
探検の中に哲学的な思考が満載だった。
個人的には今年一番に近いノンフィクションだと思った。
そんな中、「極夜行」の前段の著書を見つけた。
読んでみようと思い、購入

本の対象読者は?

探検について興味がある人
「極夜行」を読了した人(読みたいと思っている人)

著者の考えはどのようなものか?

・著者が極夜行を行いたい理由

太陽が昇る世界で暮らす私たちにとって、太陽が昇らない世界には想像もつかない未知が広がっている気がする。

極夜の時期にカナダで飛行機で行ってホテルに数泊滞在して、高い金を出してうまい食事を食べても、ただ暗かったということ以外に分かることなど何もないだろう。

極夜など単にくらいだけの世界である。だから極夜の本質は、外界の自然状況より経験する人間の内面に現れる。つまり極夜は客観的事象ではなく主観的経験なのである。

誰ともつながらず、氷点下四十度近い凍てつく青白い世界に、ぽつんと切り離されて立っていることが、この上もなく素晴らしいことのように思えた。私の肉体は今、ほかの一切の余分な要素が排除され、私のみによって構成され、私的なものが隅々まで充満している。今日はどこまで進むか私が判断し、明日はどこまで行けそうかも私が考える。他の人間は私の行動や判断に一切関知せず、私は一個の自立的運動体としてこの地球の表面をごそごそと動き回っている。つまり私という生命は今、上から下まで完全に私によってコントロールされ、私により満たされ爆発寸前なのだ。

この隔絶感、自然との対峙感こそ自由の正体であり、私は真の自由を満喫するために北極の地に毎年性懲りも無く来てしまう。

→☆極夜や厳しい環境で著者は本当の意味で自分と向き合うことが出来、その向き合うことが出来た充実感が次の冒険へを誘う活力になっている。
今回の準備行でも、著者は自然との対峙の後に大きな充実感に包まれており、その状況をうまく言葉で表現していると思う。こちらも乗り出すようにして読めるし、その心情も十分理解できる。
冒険家というのは、何らかの記録を作ることに躍起になっていると思いがちだが、著者の場合はもちろん記録も大事だがその冒険校に至までのストーリーが非常に重要 だ。
それを理解した上で著者の冒険についての著書を読むと驚くほどの中身の深さに舌を巻いてしまう。

・文明の利器をなるべく使わない

GPSと衛星携帯電話 が該当。どちらも自分以外の力を当てにしている のが気になるとのこと。
→GPS;今回は全く使わない。その代わりに六分儀を使う 。六分儀は昔南極大陸で使ったことのある南極越冬隊の人に話を聞きに行き、アドバイスをもらっている。

(使わないことによって)、地球それ自体と向き合い、上空の☆と直接つながっているという感覚を得られる(六分儀を使うので)

「ノンデポ・ノンサポート」や「無補給」を標榜し、行為の自力性を高らかにうたっているにもかかわらず、現代の冒険家はその自力性を侵害する先端テクノロジーの利用にほとんど抵抗を感じていない。

・冒険とは

本来、旅なのだ。(中略)冒険は未知と棄権を前提にした旅の一形式だ

プロジェクトを成功させることにあるわけではない。zっゆんびから何からすべて自分が関わって、その関わった家庭次第で最後の結果が変わってくる

あらゆる事に想像が及ぶというのは所詮幻想だ。むしろそれは逆に情報が過多になった事による現代人の想像力の貧困を示す証拠だ。

→☆冒険であるから著者は行為の自力性を一番大事なことと考え、できる限りのことを自分でしようとしている 。だからこそデポの設営もすべて自分で行い(ヘリや輸送船などを使わない)、GPSや衛星携帯電話を使わない、と言う方向になっている。

ただし衛星携帯電話については結婚して子供が生まれた、と言うことから家族と長期間の関係の断絶はやはりまずく、もし探検の決壊の知を落とすことになると家族に申し訳ない、と言うことで今回は携帯することになったとのこと。

その考えにどのような印象を持ったか?

冒険がなぜ著者に必要か、そしてその哲学をしっかりと理解できた。
著者の理想を追求するとかなり大変な事が多いが、理想を追求するためにそれを体力と知恵で乗り切ろうとしている所 が素晴らしく、うらやましいと思った。

印象に残ったフレーズやセンテンスは何か?

寒い夜、結露で乾かない衣類、重い橇、ぜんぜん良くならない足下の雪面、凍傷の危険……、細かなところで色々とうまくいかず、それが進退へのストレス隣肉体を徐々に消耗させていく。私は、死ぬときというのはもしかしたらこういうときなのかも知れないなぁ等と漠然と考えていた。装備が不調だとか、食料や燃料が足りなさそうだ十日、そういう明らかに不具合が出ているわけではないが、なんとなく全体的に歯車がかみ合っていない感じがあった。

→☆今回のデポ作成行の全貌を簡単に言い表している。前途多難ということがよく分かる一文だった。

「待つ」時間の中には、自然の中を旅することの本質が潜んでいた。それはあくまで主は自然の側にあり、我々人間が時折垣間見せるわずかな「緩み」を見つけて、その隙を突いて行動するしかないという、人間が生き物である限り最終的には従わなければならない自然に対する従属性を示している

→☆個人的に「待つ」事が苦手、ではあるが、待つということは相手に隷属するということ。これが嫌だから待てない、と言う話なのだろう。人間関係の場合はそういう意味で待つのが嫌いという人が多いのかも知れない。自然相手の場合は、こちらが隷属するしかないわけで納得がいく話になる。

類書との違いはどこか

著者の冒険についての報告書でもあるし、また、その好意の中で思索したことがふんだんに盛り込まれているところ。
「フィールドを闊歩する哲学者」というイメージがわいた。

まとめ

「極夜行」の前哨戦の話だ。本編もかなりな困難度だったが、前哨戦からかなり苦労していることが分かる。
いつもくじけそうになりながら、なぜその冒険をするか、と言うことに考えを及ばせているので、次の行動が出てくるのではないかな?と思った。


かなり前途多難だった「極夜行」の準備段階についての著書でした。

次の記事では、実際の「極夜行」についての著書の紹介に移ります。

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