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「またまた番外編 就活締め括りの内定日=拘束日」

   ここ数回はアルバイト歴の話してませんね。なんとなく仕事括りってことで、深く考えずに流してください。
   そして就職活動はなんだかんだで、数社から内々定頂いてました。では、最終的に何処に決めたか?そして何故その企業に決めたのか?
    前述の通りのマスコミ志望、の中でも成りたかったのは新聞記者でした。そして仕事覚えて地力つけたら、フリーになってルポライター的な活動をしたいと考えてました。当時の漠然とした夢では、1人のプロスポーツ選手に付いて回ってその彼のストーリーなんかを書きたいな、なんて考えてましたっけね。そんなイメージもあって、大学時代も学内のスポーツ新聞書いてたわけでしたし。
    では何故、新聞記者に成りたいと思っていたのか?始まりは、ものすごく安易なものでした。小学5年生くらいだったかな、公共施設のイベントの招待チケットがクラスで何枚か配られるということがあった。それは下町がフィールドの悪ガキ共の、都心中枢部に電車に乗って遊びに行っても良い、という免罪符でもあった。そして、そのチケットを手にして大手町にあった『逓信総合博物館』という施設に行くった時のこと。ここの入場チケットは結構出回ってたので、年に2回くらい行けるチャンスあった気がする。この施設は当時の郵政や通信の技術が、どのような形で社会に役立っているのかとか、その歴史から最先端の通信技術の展示とかがされているって感じだったかな?PCなどは一般家庭にはまだまだ無く、インターネットなんて言葉すらも知らない時代。そうそう電話は線で繋がれてて、大概は黒たった。そんな時代、その最新技術の展示なんていうものは、未来の世界そのものだった。そんな中に、名前や生年月日を入力すると、性格判断など結果がプリントされる機械があって『その場で打ち込んだ情報からの結果のプリントアウト』なんて、今では普通の家庭でもできるようなことが、当時は夢の世界だったわけで、みんな並んでその紙を手にした。そこに向いている職業みたいなことが書いてある欄があり、そこに『ジャーナリスト』と書いてあったのでした。しかし、当時はプロ野球選手に成りたかった俺は「ジャーナリスト?なにそれ?」って感じだったんだけど、結果を学校に持って行ったときに先生が、その結果を見て「ムサシは新聞記者が向いてるのかぁ。いいかもな」なんてこと言われたのが頭に残ってたんよね。その後、中学高校と大人になるにつれ、スポーツ選手として生きることの壁や難しさを経て、それを諦めていく流れの中、その時の頭の片隅にあった適性を思い出していくことになる。極めつけは、高校時代に『職業適性検査』みたいなことをやって、そこにも『ジャーナリスト』と書かれていて、あーやっぱり俺はジャーナリストになるんだな、なんか響きもカッコいいし。って単純に思い、そうするためにはどうしたらいいのか?って考えたのが始まりだったな。

 そしてそんな安易な根っこからのマスコミ志望の就活となるのだが、空前の売り手市場の時代でも、マスコミは狭き門で『朝日』『読売』などの大手一般紙、『スポニチ』などのスポーツ紙も全て、2次面接すら進めずに終わる始末でした。
    それでも先に書いたように就活はそれなりにしていたので、6-7月ころには内々定頂ける結果は出ていた。最初は大手では無かったが、業界内4〜5番手の広告代理店。ほぼ同時期に中堅クラスのCM制作会社。この時点で、社長面接が残っている新聞社以外で、俺的に働きたいと思った順位が下位の企業で面接進んでいるところは、以降の面接など辞退させていただく形を取りました。生意気な話だけどね。そうそう他に、バイト時代の流れで口約束の内定が2社ありました。
    そして、その新聞社。電気業界の専門紙だが、毎日発行。発行部数も当時の『毎日新聞』の夕刊よりも多く発行されていたってのが売り文句でした。『電波新聞社』新聞以外に、雑誌『月刊マイコン』や『マイコンBASICマガジン』を刊行。当初は家庭用コンピュータを「マイコン」と呼んでたのよ。Windowsが発表されて一般家庭にPCが普通にあるようになる数年前の話ね。コンピュータープログラムの初心者向けの雑誌だったな。そんなのを創っている新聞社でした。
 社長面接の日、電波新聞社は五反田駅前に自社ビルを有していて、ここに来るのは説明会含めて4回目くらいだったかな。今までの会議室などの面接とは違い最上階へ。フロアの造りから全く違う様相な印象だけ覚えてます。大きな窓からの景色の良い応接室でいったん待機。待っている間、緊張ってわけでもないけど、ちょっともよおしてきてしまい、連れてきてくださった人事部長さんにお願いしてトイレ使わせてもらいましたが、こちらもちょっと豪華でしたね。で、しばらく待っていると番が回ってきた。絨毯の敷かれた廊下を通って社長室へ。ここまでの印象よりはこぢんまりとした部屋でしたが、重厚感あるクラシカルな書斎机の向こうから、にこやかな笑顔のその奥に厳しさが垣間見える眼差しをした社長がお出迎え。緊張はしていましたが、専攻していたインドの話の流れから、当時のめりこんでやっていたインド国技の『カバディ』の話に興味持っていただき、ほぼほぼその話で盛り上がって和やかに社長面談は終わり。よほどの〝ポカ〟をしない限りは社長面談で落とされることは無い。って話だったので、まあ手ごたえ有りって感じ。その数日後には内々定の連絡来まて、念願の新聞社の切符ゲット。他の内々定いただいていた広告代理店なんかも興味はありましたが、新聞記者へのあこがれ強く、ここに決めました。志望の発端はコンピューターによる適性判断からなんだけどね(笑)。

 当時は「就職協定」というのがあって、企業の採用活動が8/20スタートと決められていた。名の知れて強い企業がよい人材を早く確保してしまう青田買いを防止するための政府指導だったらしいが、あくまでも目安的な扱いしかされてなかったのだと思う。結局企業としては『内定』=『採用決定』という書面を使わないだけで、内々定という言葉は使っていましたからね。
 では、企業側がその『採用』という確約をいつしてよいのか?っていうのが『就活解禁日』と言われた8/20でした。この日に企業側から呼ばれることが採用決定に繋がり、企業側も内々定を複数持っている学生をちゃんと確保できるかの、双方正念場の日となる。
 強者の学生なんかは、その日に呼ばれている企業を複数訪問して、ちゃっかり複数の『内定』を貰うという輩もいた。これはその学生からすれば、貰うだけ貰っといて、またあとでゆっくり考えようってことなんだろうけど、企業側からすれば、確約したのに後で反故にされる可能性があるわけ。それなりの労力で採用を決めているのだから、そういうリスクは避けたい企業側は、その8/20に他社には行かせないよう策をめぐらすんですよ。そんなわけでこの『就活解禁日』を別名『拘束日』とも言われてまして。
 実際に俺の友人やその周りにあった派手な話では、
・会社集合から貸し切りのバスに乗せられてディズニーランドにて夜まで。
・東京駅集合で電車に乗り箱根一泊旅行、夜は芸者さんまで呼ばれてたそう。
・都内はとバスツアー
真面目なとこでは、自社の工場見学ツアーやらもあったようだ。
日程的に夏真っ盛り、まだ〝クールビズ〟なんて言葉もない時代。暑くてもスーツの上着は基本的に着用必須だったので、ディズニー組は汗だくで楽しんでたらしい。
 俺はというと、昼前くらいに品川プリンスホテルのに集合『なにやらの間』的な天井の高いゴージャスな部屋へ案内されると、楕円形に組まれたテーブルには皿やナイフフォークが整然と並べられ、各席に名前の札が添えられていた。学生10人ほどと社長や他幹部やらと挨拶やら歓談しながらの長めの会食。バブル期プリンス、今思い出してもかなりハイグレードな和洋折衷のフルコースメニューを堪能させていただきました。なんだかんだで4-5時間ほどの拘束でしたかね。ちなみに同じ大学の友人もその場に1時間ほど遅れて登場。お互いそんな話してなかったので「なんで居るん?」って感じでしたが、彼はそこに来る前に他にも行ってきたようで、最終的にはそちらのほうに決めたようでした。4月入社前の事前研修で人事部長に「彼は何処に入ったのかな」なんて探り入れられたっけ。企業側からの学校の印象が悪くなって、以降の採用状況に影響出る可能性があるので「辞退は内定出る前に丁重にするように」って学生課のほうからは、口酸っぱく言われてたんだけどね。
 そんなわけで翌春より、めでたく『電波新聞社』に入社となることとなりました。

 さて、このシリーズは
『アルバイト歴を晒せ』と題してます。時系列無視すると、その後もバイトはいろいろとするのですが、それは追々ってことで、
とりあえず話の流れと時系列のまま
『お仕事歴を晒せ』として続けますね。これがまた、いろいろあって面白いことになってますのでね。
 では次回は
『さてさて、憧れの新聞記者となりまして』編
お楽しみに~。

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