見出し画像

誹謗中傷から我が子を守りたい。というnote執筆の動機。

はじめての娘。愛おしい

自殺してしまった女性タレントの方のお母さんが胸の内を語るVTRを見て、ズンと重い気持ちになった。

我が子が誹謗中傷で傷つき、
自ら命を断つというのはどれほどの苦しみなのだろうか。

ぼくは今年の4月に初めての娘が生まれ、父になった。
親バカ全開だが、娘は本当に可愛い。
ぼくにはもったいないくらい綺麗な妻のことももちろん心から愛しているけれど、それとは種類が違う。
なんというか「命って尊くて綺麗だよね」と自然と口をついて出てしまような愛おしさだ。

母さん泣いてたなぁという記憶

ぼくは小学校5年生から中2くらいまでいじめにあっていた時期がある。
毎日のように泥だらけになって遊んでいた友達と、ある日下校途中にささい(だったのか覚えてないけど)な事から衝突し、
翌日の3時間目の授業が終わる頃には、
クラス中のほとんどがぼくを無視するようになっていた。

まぁ、今となっては凄くどうでもいいのだけど、
当時は本当に辛かった。
知恵のない10歳のぼくは、
親に言い出すこともできず、
はじめて親に打ち明けた時は泣いてしまったし、
母親もとても泣いていた。

あえていじめを起点に組み立てた半生

いまぼくはエンタメ系のITスタートアップで、
執行役員、営業責任者という肩書で、
チームを率いて毎日楽しくやっている。
取材をして頂いたり、講演会にお呼び頂く事なんかも珍しくなくなった。
たぶん、一生なんとなく楽しくやっていけるだろうな、と思えるくらいの自信はついた。

でも、
集団から仲間外れにされたり、2時間目まで仲の良かった友人が3時間目に突然目を合わせてくれなくなる経験が後をひいてか、思春期はあまり胸襟を開いて人と仲良くなることはなかった。(もちろん、素晴らしい友人にもたくさん出会えたけど)
人に嫌われる事に対して極端に恐怖心を持っていたぼくは、大学時代に人に嫌われないためにコミュニケーション本を50冊くらい買い込んで読み込んだり、
当時流行りはじめていたmixiで手当たり次第に「社長」と名のつく人にDMを送って会いにいってみたり、
西麻布のクラブMUSEでバーテンダーをやって、夜の大人の海に飛び込んだり、
パスポートと財布と地球の歩き方だけを持って一人で放浪したり、
心から笑いあえる仲間と一晩中飲み明かしていたりしたら、
いつのまにかコミュニケーションが上手くなって、
それを仕事にする「営業」という職業についていた。
というのが大極だと自分では思っている。

事件が呼び起こす感情

自殺してしまった女性タレントさんのニュースを見ていて、
あの時の母親の涙や、
それを見た時の言い表しがたい敗北感や、
そこから抜け出すために葛藤した日々や、
自分の娘の笑顔が脳内を駆け巡った。

怖い。怖すぎる。

でも。

でも、次に思ったのはアホみたいなことで、
ネット上で誹謗中傷をする人たちも、
ジャンプを読んだりして、普通に感動したりとかしてるんだろうなぁ、ということ。

譚次郎やルフィと違ったのは、
背景にある仲間や家族、葛藤や苦悩、幸せや優しい気持ち、大切にしているもや夢などが、
立体感を持って知られていたかどうか、だと思う。
漫画ではそれが丁寧に描かれるが、現実世界ではそれが丁寧に語られることは少ない。
マスメディアを通しての発信や、オンラインの世界であればなおさらだ。

女性タレントさんの素顔としての人となりや、
それまでの努力や葛藤や幸せ、
その姿を愛する両親の眼差しや仲間たちの物語を知らず、
想像力を持てなかった人たちが、
尊い命に石を投げ、殺してしまった。

人は石を投げる時、的の表面しか見ない。
立体的、あるいは時間的な膨らみを知らず、想像力も働かない時、攻撃的な集中力は高まっていく。

石を握りそうになる瞬間はある。

仕事で年間に1,000人近い方とお話ししていると、イラっとしてしまう瞬間は、ある。

そんな時、コミュニケーションでご飯を食べさせてもらっている身として、一応いっぱしに気をつけている事がある。
それは「その人の両親が後ろに立っていると思って話す」
ということだ(別にYESマンになる必要はない。言うべきことは言うが、人の言葉で話せる)。

ぼくを含め、結構多くの人は弱いらしいので、
ついつい自尊心を守るために、
強い言葉選びをしたり、言葉に毒を忍ばせたりしてしまう。
そんな時は決まって、相手のことを二次元的に捉えているものだと思っている。

大学時代に少年犯罪を1年間研究していて、
結局殺人鬼の気持ちは全然わからなかったけど、
知らないものを恐れ、決めつけ、攻撃してしまう普通の人の弱さなら実感としてわかる。
そして、ネット上の誹謗中傷問題は、よくわからない殺人鬼の所業ではない。

立体的な背景への想像のきっかけをもてなかった、普通の弱い人の仕業だ。

大事なのは、石を握りそうになった時に、「その石を投げる理由がその人を愛する誰かにちゃんと説明できる理由か」を考える事だ。石を投げるべきなのか、言葉を選び直すべきなのかは、それで大体わかる。

身内の顔、という抑止力

娘のツルンツルンの寝顔をみていると、
この子に誰かが石を投げようとした時、
もしその人の脳裏にぼくの顔が浮かんだとしたら、
投げるのをやめてくれるかもしれない。
と思った。

そうすると、
「SNSフォロワーこそがこれからの信用経済における通貨だ」
という喧伝にいまいち体重をのせきれない自分も、
SNSで何かを発信する価値があるのではないかな。
と思ったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?